Karma -カルマ-


「あたりまえ」だった世界が、ある一瞬を堺に「あたりまえじゃない」世界に姿を変えたなら。
人は、受け入れることが出来るのだろうか。
そして、また、認めることは出来るのだろうか。




Index.

第一部 上層

  1.月夜の下で
  2.緩やかな朝
  3.in the school
  4.fancy coffee shop
  5.意外と……
  6.Shut bustle inside
  7.夕暮れ時1
  8.夕暮れ時2
  9.眠りに寄せて


第二部 中層

  10.はじまり
  11.軋み1
  12.軋み2
  13.訪れ
  14.暗くシズム
  15.孤独
  16.疾走
  17.追いかけて
  18.繋がり始める世界.1
  19.繋がり始める世界.2


第三部 下層

  20.邂逅
  21.蹂躙
  22.対峙1
  23.対峙2
  24.slowly moment
  25.escape
  26.そして振り出しに戻らない
  27.明かされる力
  28.覚悟
  29.真か偽か


第四部 深層

  30.閑話休題
  31.前準備1
  32.前準備2
  33.前準備3
  34.前準備4
  35.会戦


第五部 真相

  36.霞の戦い
  37.鬼さんこちら
  38.手の鳴る方へ
  39.そこにいる
  40.蟻と蟷螂
  41.眩暈
  42.鼓動
  43.虚構の盾
  44.劣勢
  45.決着
  46.終着
  47.後日談


幕間1 digression side/A 「vivid black」

  01.
  02.
  03.
  04.
  05.
  06.
  07.
  08.
  09.
  10.
  11.


幕間2 digression side/B 01 「rebirth a scar」

  01.
  02.
  03.
  04.
  05.














1.『月夜の下で』

 
 満月が輝く時間。
 人の気配が無く、静寂に包まれる街。
 生活臭はなく、高いビルが競う様に立ち並んでいる。 
 ここは、俗に言うオフィス街であった。
 その街に聳え立つビルとビルの間の空間。
 人の記憶から破棄されたような、死んだ場所。
 その場所は、誰の手にも染まらず、ひっそりと静かな空気に包まれ時に身を任せて孤高に朽ちてゆくはずだった。
 しかし、今夜は客人がいた。
「ねぇ、私を壊したいんじゃなかったの?」
 ねっとりとした、蟲惑的な声で少女が目の前に転がる男達に向かって言う。
 恐らく、くだらない目的だったのだろう。最初は少女の後をにやにやとした笑みを浮かべてついてきた男達だったが、今では這いつくばって目の前の少女を見て恐怖で顔を歪めている。
 ようやく少し脚の自由が利くようになったのか、男が一人、少女に背中を向けて一目散に逃げ出した。
「そうよ。……そうやって、一生懸命逃げてくれないと、やりがいが、ね」
 その男は人間の中でも中々に足が速い人種だったらしい。今の一瞬で大分少女との距離を離した。その距離20メートル。
 あの少女と男では歩幅も大分違う。いかに少女が足が速くても、もう追いつけはしないだろう。男は無事に安全圏まで逃げ切ることができたと言える。
 しかし、それは相手が人間の範疇だったら、の話だ。
「くす……」微笑んで、
 少女はさもなんでもないように、跳んだ。
 助走など皆無。
 本当に、なんでもないようだったのだ。
 ただ、一歩踏み出せば届く距離だった。そんな感じだった。
 そしてそれは、疾かった。
 まさに疾風。
 目の前で腰を抜かしていた男達には残像も見えたかどうか。
 そして、疾駆した少女とまだ状況に気が付いていない男が衝突する、と思ったか否か。
 男は浮いていた。
  赤子が人形にそうするように、少女が男の首を握って。
「も、もう……」
 男の言葉の意味するところが判ったのか、少女は妖艶に微笑み、そして何かを口ずさんだ。
  瞬間。
  男の両側の影から急激に蛇のような手が伸びる。
「―――ああアあああ……あ…」
  男を「喰らった」。
 どしゃ、と重みのある音がした。
 腰を抜かしていた男達も、自分達がどれほどの境地に立たされているか、やっと把握したのか。
「……う、う…ぁ。……う、うわぁああああぁあ!!」
 絶叫した。
 血走った目を見開いて、無理やりに足を動かして走る。
 逃げる。
 少女は、それを見て、笑った。
 ぞっとするほど冷たい笑み。
 少女は、狂気を身に纏っていた。

     *

 私は諸手を優雅に振る。
  それはそう、まるで、コンサートの指揮者のように。
  そして影に潜む無数の亡者達は、その指揮に併せて男達を
  喰らい、
  殴打し、
  引き千切った。
 その行動を、たった一つだけの意味を唯々込めて放つ。
 明らかなる殺意。
 純粋過ぎる殺意。
 殺意で無い殺意。
 唯、目の前に存在する何かを刻む。
 それを、愚直なまでに繰り返す。
 つい何分か前までは人の気配に埋め尽くされていた路地裏は、今は死臭と死体と血溜りで埋め尽くされている。
 今も、一人分解された。
 見事なまでにバラバラに。
 捻じ切った。
 崩れ落ちたそれは、最初は何回か蟲のように痙攣したが、その後はもう何の反応もしなかった。
 そこには人間に対する尊厳とか、倫理感とか、そういった類の感情は無かった。
 そもそも、彼らを人間として認識していない。
 まるで、虫を潰すように。
 まるで、草を刈取るように。
 呼吸するように。
 殺したかったから、
 殺した。
 それだけ。
 そこには何の感慨も湧きはしない。
 一体この何分間かの間にどれだけ刻んだかなんて、覚えていない。
 数える価値すら感じない。
 ただの暇つぶし。
 ただの、八つ当たり。
 とうとう、その対象は残すところ一人になった。
 最後の一人、その男は無様に目の前を這いつくばっている。
 逃げようにも、腰が抜けて足が言うことを利かないのだろう。
 世界の終わりが来た。そんな顔をしている。
 ――それでいい。
 それでこそ、やりがいがある。

     *

 折角なので、少しだけ猶予を与えてあげることにした。
 優しい私。
 十秒間だ。
 その間に私の視界から消えることができたら、生かしてあげる。
 男は、九死に一生を得たと思ったのか、安堵の表情を浮かべる。
 この路地裏は距離的にそんなに深くはない。全力で走れば余裕で十秒内にこの路地の直線上から外れることができる。一度外れれば、この路地裏を形成している建物郡が視界を遮り、もう見えなくなる。
 それを男も理解していたのだろう。
 男は、がくがくと震える足に最後の力と言ったらいいのか、無理やりその足を機能させ、
 私に視線を戻すことなく、一目散とばかりに180度回転し、逃げ出した。
 いち。
 まるで、公園で無邪気に遊ぶ子供のようにカウントを始める。
 に。
 もう少しで、曲がり角にたどり着きそうだ。十秒は長すぎたかな?
 さーん。
 ………。
 ……………。
 男は急に私のカウントが聞こえなくなったのが気になったのだろう、
 一応走る足は止めず、首だけでこちらを振り向いた。

 飽きたので、やっぱり殺すことにした。

 その瞬間、右腕を外側に向かって乱暴に振るう。
 男の足が胴体から切り離された。
 突如切断された胴体は運動エネルギーがまだ残っていたのか、体当たりするように、または前方に落ちるように飛んだ。
 そのまま姿勢を方向転換することもできず、傷口から見事に地面に落下する。
 傷口を地面に接着させたまま、慣性でアスファルトを滑る。
 声にならない声が聞こえた。
 息の根を完全に止めようと、その男に近づく。
 男は、絶望にも嫌悪にも憎悪にも似た表情で私を見た。

 快感だった。

 エクスタシーとでも言うのだろうか、それとも絶頂感? とにかく、背筋になにか鋭いものが疾ってぶるぶると震えるような快楽を感じた。
 近づくスピードが徐々に増加する。
 止められない。
 止める気もない。
 止める理由が無い。
 走りながら、両腕を羽ばたくかのように広げる。
 一瞬、両側の壁が歪んだ。
 それほどの速度。
 攻撃距離に入った。
 否、これは攻撃ですらない。一方的な蹂躙。
 そのまま、
 狂ったような速度を乗せて。
 目一杯広げた腕を、内側にクロスするように畳んだ。
 慣性を殺しきれず、その体勢のまま男の背後に滑るようにして移動する。
 場に静寂が流れ、
 そして、私は最後に捨てるように台詞を吐いた。

「……つまんないわ。…バイバイ」
 
 直後、男は纏わり付くような闇に包まれ、その隙間から血が噴出した。
 噴出した血は、月光に照らされてつやつやと光る。
 綺麗だった。
 なんとなく、自分の両手に視線を移す。
 指先は月明かりと血液で濡れ、
 それは自らを主張するように光っていた。
「――ふふ、あなたたちも気持ちがよかった?」
 自らが指揮していた「闇」に向かって声をかける。
 当然、声は返ってこなかったが。嬉しそうに血を滴らせるその姿に、確かな返答を感じた。
 両手から、空に視線を移す。
 手からはまだ血液が滴る感触がしたが、そのままそちらは気にせず、頭上の空を眺め続ける。
 深く暗い闇が頭上に広がっていた。
 星は一つも確認できなかったが、
 大きな大きな、
 満月が見えた。
「……そう。あなたも、どうだった?」
 満月に向かって右手を差し伸べる。
 まだ凝固しない血液は、重力に逆らわずそのまま私の腕を伝って胴体に流れ込んできたが、全く気にならなかった。
 むしろ、気持ちが良いくらいだ。
 黒い雲に霞み、輪郭が不明瞭になる。
 満月は、
 まるで笑っているように見えたので、

「よかった」 
 
 私も、にっこりと笑って見せた。

「きっと、――――も喜んでくれるよね?」
 言葉を発した後、思わずきょとん、と呆けた。
 ―――私は、
 今、誰の名を呼んだ?
 思い出そうとした。
「…………ぁ、ぐっ!!」
 だが、いつもの頭痛で、その行為は却下された。
 いつもの、ことだった。
 そう思って、破却しようとした。
 だが、なんだろう。
 この胸に残って消えない、棘のような思いは。
 思い出したい。
 思い出せない。
 頭痛。
 最近、この頭痛の周期が短くなってきた。
「はぁ……はっ……は」
 誰か、
 助けて。 

 ―――もうそろそろ、
         私は壊れるかもしれない



2.『緩やかな朝』


 ――僕は、夢を見ていた。
 
 はずなのだが。
 いかんせん、夢を見たという事実は頭の片隅に残っているものの、肝心の内容に関しては全く覚えていない。という状況で目覚めた、まぁよくある最悪な朝だった。
「んー……」まだ眠かった。
 身体が疲れているのか、それとも夢の続きを欲しているのか。
 どちらにしてもこのままの姿勢でいたらまた眠ってしまいそうな確信めいた予感がしたので、とりあえずこの体勢と温かい布団から半分だけでも脱出することにした。
 上半身を起こす。一瞬、立ち眩みならぬ寝眩みがした。
 寝癖のついた頭をぽりぽりと掻きながら、まだ呆けている頭で考える。
 ――どんな夢だったかな。
 さして重要なことでもなさそうだが、なんとなく気になっていた。
 たまにならばあまり……、というか普通にそんなこと気にしないで即刻朝食の準備をするか顔を洗うか、二度寝するかという選択肢を選ぶのだが。
 ……最近、どうもこういった事態の頻出度が冗談じゃないほどに多くなってきたので、さすがに我が身が心配になってきたのだ。この年で痴呆はさすがに避けたい。
 それに、普通ならば要所要所覚えていたり、こんな感じだったな、とか雰囲気くらいは覚えているものだが、
 綺麗さっぱり抜け落ちている。という状態がどうも腑に落ちない。
 考える。
 ………。
「ダメだ。思い出せない」
 とりあえず今は無理だと悟ったので、その部分の思考を断ち切る。
 こういった決断の早さは結構自慢できるモノだったりする。高校入試の小論文だった「自分について」にももちろん書いた。これで作文用紙の半分が埋まったのだから充分立派な長所だろう。
「さて、と……」ふぁ、と生あくびをしつつ両手を天井に向かって伸ばす。これによって眠気がなくなるのかは疑問だが。
 誘惑を断ち切り、ベッドから降りる。
 カーテンを開けると、眩しい陽光が降り注いでいた。この部屋はなかなか陽射しが良いというのが不動産の売り文句だったのを思い出した。観葉植物なんかを置いたら立派に育ってくれるのだろうが、買う機会がないので今のところは特に陽光の恩恵を感じることはない。
 それよりも、切実かつ現実的な問題が目の前にはあった。
 さて、
「何食べようかなぁ……」

 一言言っておくと、僕はそれほど堕落した人間ではない。
 例えば、ご飯を炊くのも面倒だとか、パンのストックを買っておくくらいの思考的余裕がないだとか。それくらいは一応難なくやれる。
 が、それも一人分の場合の話だ。
 そう。例えば、計画的に朝と夜の分と二合の米を炊き、今日の夜は疲れそうだから明日の朝はパンにしよう。とか。そういったとても健全な一人暮らしっぽい計画があったとする。
 例えば、この世界に同じ人間の癖して一人で三合の米を平らげる猛獣がいるとする。
 例えば、その猛獣が同じアパートに住んでいるとする。
 例えば、僕と結構仲が良かったりする。
 結果。こうなる。
「うぃーっす! カスミ、飯食おうぜー」
 破滅的な音を繰り出しながら玄関のドアが開けられた。否、蹴り飛ばされた。
 あー。鍵、壊れたな。
「……いいですけど」
「なんだい、どした?」僕の様子を疑問に思ったのか、ドアを蹴り飛ばした野獣が聞く。
「オフィリアさん……、来るたびにドア蹴飛ばすの止めてもらえません? 大家さんに怒られるの僕なんですよ?」
「色気付いて鍵とかかけてっから、悪ぃんだよ」
 そんな本人は、全く悪びれた様子がなかったりする。
「今日はおかず持ってきたんだー! ほら、美味そうだろ?」にひひ、と悪ガキのような屈託のない笑顔で右手に持っていたタッパを指差すオフィリアさん。「大家のおばちゃんに貰ったんだ」
 半透明のタッパの中には、煮物のようなものが見える。確かに美味そうだ。
 っていうか、……この人が持ってくるとなんでも美味く見えるなぁ。いや、もちろんそれはこの人がそういう特殊な技能を持ってるとかじゃなくて、ただ単に持ってくること自体が珍しすぎるので、その持ってきたものの価値も自動的に上がるという仕組みなのである。
 しかし、そんな理屈を抜きにしても本当に美味そうだった。
「……本当だ、おいし…」
 ……いや、待て。
 ダメだ、甘やかしちゃダメだ。
 ここはビシっと言わなければ。
「オフィリアさん」
「なぁに?」今度はさっきと打って変わって、にこりと上品な仕草で首をかしげた。
 くっ……、なんて可愛さなんだ……。負けそうだ。
 だが、負けん。
「今度から、ちゃんとノックするか呼び鈴ならして。それから僕が鍵を開けてから……、というか正規の手順で入ってきてくれないと……。一緒にご飯食べませんよ?」
 静寂。
 言った後、やばい調子に乗りすぎたか? と思った。
 なんとなく、反射で頭をかがめてガードする。彼女はすぐに手や足を飛ばしてくるのだ。
 ……あれ?
 飛んでこなかった。
 ちらりと、ガードの隙間からオフィリアさんの様子を伺う。
 ………。
 僕の家の玄関(壊れた)で、金髪の美少女が、俯いて身体を縮こませていました。どんな状況ですかこれは。
 っていうか…、
 うわ……、めっちゃへこんでるよ……。
「………」
 泣きそうだし。
「あの、オフィリアさん?」顔を覗き込む僕。
「……………。ごめん」
 口を尖らして、斜め下を見ながら小さい声で言った。
 本当、子供みたいな人である。
 まぁ、でもそんなところが結構愛らしかったりする。こういうところもないと、いつも攻撃されっぱなしでは割に合わない。……まぁ、それもそれで悪くは無いと思っているのは内緒である。
「………」
「………」
 なんとなく、嫌な空気が流れた。
「ま…、まぁ! 折角美味しそうなおかずを持ってきていただいたんだし……、とりあえず中に入って……」
「……いいよ、どうせお世辞だろ…」
 拗ねてる…。
 オフィリアさんは普段は完全な天上天下唯我独尊な性格の癖に、一旦落ち込むと長いんだよなぁ……。多分プライドの高さから来る落差なんだろうなぁ。僕とは全く正反対である。ということは、僕ってプライドの無い人間だったのか……、それはそれでへこむなぁ……。
 む、危ない。二人しかいない空間で二人がへこんでいたら終わりである。
 まぁ、こういう時の対処法がないわけではない。
「………」
 レッツ強引。
 ふぅ、とわざとらしく大きな溜息をついてみせる。
 そうすると……、
 ほら、ちら見した。
 このタイミングを逃さずに、腕を掴む。
「………わわっ、なんだよ!」
 そして、引っ張る。
 多少抵抗するが、そんなものは抵抗とは言えないほど可愛いものである。
 更に引っ張る。
「ちょっ……! うわわ」
 オフィリアさんは体制を崩しながらも玄関に黒いヒールを脱ぎ捨てた。そういうとこは意外に常識的な彼女である。土足で上がるお宅もあるというに。しかし、ドアを蹴飛ばして入るお宅は全世界どこを探してもないだろう。
 そのまま、引っ張ってベッドに座らせる。
 もう入ってきてしまったからか、抵抗せずにちょこんとベッドに大人しく座る彼女。そして、心配そうな困惑してるような上目遣い。
 ちらり。
 ドクン。
 心臓が一瞬高鳴った。
 それと同時に、今更さっき勢いでやってしまった行動に対しても自分で少々困惑気味になってきた。
 さっきの、傍からみたら痴話ゲンカにしか見えないよなぁ……。
 うわぁ、やばいな……。
 何がどうやばいのかは定かではないが、逃げるように台所に行く。
「…ほ、ほら。ご飯はいっぱい炊いてありますから、食べましょう?」と、照れ隠しもさながらに声をかける。
「……うん」
「いつまでも拗ねてないで、オフィリアさんの好きなほうじ茶も今日はありますから。元気だしてくださいよ」少々高圧的な物言いだったかな、と言った後に反省。
「……えっ! ほんと!?」それまでと一転、ぴかー、と顔を輝かせるオフィリアさん。
 彼女は朝食を食べた後にのんびりと好きなほうじ茶を啜るのが大好きなのである。外国人の適当イメージな典型的日本人そのまんまである。っていうか、彼女ドイツ人なのに。まぁ、僕もそんな時間は悪くないと思っているので、文句を垂れるつもりはないが。
 はい、とほうじ茶の缶を目の前に持っていってあげた。がばっ、と先程までのローテンションはどこに行ったのか、僕の手から缶を奪い取ってうわぁ…、とか言いながら青い瞳を輝かせている。
 青い瞳……。じっと見ていると瞳の奥底に吸い寄せられそうなほど深く、淡い色である。その瞳の色で、彼女が普通の人(この場合日本人という意味だが)ではないということが一目で判る。
 先程も触れたが、彼女はドイツ人である。正確に言うと、ドイツ人と日本人のクォーター。もちろん、ドイツ人の血の方が濃い。
 オフィリア・フォン・エーデルシュタイン。それが彼女のフルネームである。特徴的なのは、さらさらとした金色の長い髪と、青い瞳。それに日本人にはないスタイルの良さ、そして整った顔立ち。 ここだけの話、完璧な女性像ではないかと僕は密かに思っていたりするのだがそれは断固秘密である。
 まぁ、見た目だけの話だが。
 ……あとは、あの正確がどうにかなれば、そこら辺の男の人達が放っておかなそうだ。彼女にも僕以外に男性の知り合いくらいいるだろう。……まぁ、僕は今のままで構わないと思うのも、やはり秘密であるが。


 朝食が終わり、部屋の中には静寂と、二人分のほうじ茶を啜る音だけが支配していた。
「ふぅ」意味も無く、息を大きく吐いてみたりした。
 陶器のコップを口に当てながら彼女を横目で伺う。
 彼女は眼を瞑りながら、自分専用のコップで茶の味だけに集中するように啜り続けていた。彼女専用のコップはこのあいだ彼女が自分で持ってきてここに置いていったものである。
 ……こうして改めて見ると、異様な光景である。
 というのは、別に僕が外国人に対して変な偏見を持っているとかそういうわけではない。
 彼女は人種の垣根を遥かに、というか余裕で超えた容姿端麗な女性。
 だから、何かおかしい。
 何かって、それは。
 ……なんでこんな寂れたアパートの、それも特にこれと言った特徴もない普通の高校生の部屋で当たり前のように平坦とお茶を啜ってるんですか。
「なんで、って。そりゃあ、あたしがカスミんとこ気に入ってるからに決まってんじゃん」
「あ、それはどうもありがとうございます」
 それだけ言って、また茶を飲む彼女。
 ……。いつの間にか思っていることを口にしてしまっていたようだ。
 この癖どうにかならないかなぁ。
 まぁ、いい。どうやらいつの間にやら彼女の機嫌も直っているようだし。こんなまったりとした時間も悪くないだろう。
 ……何か忘れているような気がするのはきっと気のせいだ。
 僕は、何か忘れていることを誤魔化すようにコップに口をつける。と、その際に視界の端になにやらやけに視線を動かしているオフィリアさんが映った。
「どうしました? あ、急須だったらここにありますよ」
「あ、うん。サンキュ。……ねぇ、それよりもさぁ」
「はい、なんですか」
 なんて、熟練された執事も真っ青な動きで急須を操りながら返事をする僕。
 そんな僕に、現実の世界に引き戻す非情な一言が容赦なく、さらりと至極なんでもないことかのように彼女は言った。
「学校行かなくていいワケ?」
「………そうでした」
 まるで、休日の朝のような雰囲気を漂わせていたが、今日はばっちり月曜日である。
 時計。十時三十分。
 もう完璧遅刻です。
「なんで、もっと早く教えてくれなかったんですか!」
「いや、お前わかってただろ……。絶対」
 その通りです。
 今日は朝からなんだか疲れたからもういいでしょ? 今日くらいは間違ったフリしてサボらせてくださいよ。的な考えがあったということは否めない。
 あぁ……、そう言えば担任の先生から、『月乃、お前編入してきた上にちょっと休みすぎだから気をつけろよ』とか言われてたっけ。
 病欠ってことにしたいけど、もう遅いだろうな……。あ、でも保護者っぽい人に電話してもらえればなんとかなるかも。
 ここはオフィリアさんに『姉です、弟が心配でこっちまで来たのですけれど、なにやら重症っぽくて。単位の方はなにとぞヨロシク』見たいな感じで電話してもらおうか。
「オフィリアさん」
「やだ」
 ダメだった。
 仕方ないので、今からでも行くしかない。怒られたら、奥義すみませんでした。を発動するしかなかろう。
 とりあえず、急いで破り捨てる勢いで上下の寝間着を脱ぎ捨てる。
「いやーん、カスミ君なにするつもりなのんっ!?」
「本当勘弁してください!」
 いやーん、とか言いながら抱きついてくるオフィリアさんを振り払う。僕が真面目に焦った顔をしていると判ってくれたのか、ちぇー、と言って渋々また座りなおした。
 ハンガーにかけてあった制服を荒々しく取って、着る。
 制服を着る動作を続行しつつ、ベッドの横に立てかけておいた薄っぺらい鞄を乱暴に掴む。
 よし、もう行ける。
 ダッシュで玄関のドアに手をかけながら、踵の部分を踏みながら靴を履いた。
 踏んでいる部分に指をつっこんで直す。
「じゃあ、行ってきます! 鍵はいつものとこに入れといて下さい!」
「カスミ、ちょっとまって」
「なんですか!?」
 ちょっと苛々した様子で答える。
「髪、跳ねてるよ。あはは……」
 彼女は微笑しながら、水を手に少しつけて手櫛で僕の頭を梳いてくれた。
「あ……」彼女のさりげない優しさに、今さっき強く当たってしまったことを少し後悔する。
「いい男が台無しだよ。ほい、行ってらっしゃい」
 最後に、頭をぽん、と叩いて笑顔で手をひらひらと振った。
「あ、……行ってきます」
 きっと、今僕は顔が真っ赤になっているに違いない。
 彼女の笑顔は反則だと思う。
 恥ずかしさを誤魔化すようにして、走り出した。
 空を見上げる。今日はとても良い天気だった。
 走りながら、思い浮かべるのは彼女。
 僕を好いてくれている、綺麗な金色のお姉さん気質で隣人の女性。
 彼女の顔を瞼の裏に思い浮かべながら、僕は考えていた。
 ……そもそも、遅刻の原因ってあの人じゃなかったっけ?


3.『in the school』

 
 学校の校門に到着した時、丁度良く授業終了のチャイムが聞こえた。
「お……超ラッキー」
 超ラッキー。などともはや絶滅寸前と化した言葉をついついだとしても独り言で呟いてしまったのは、授業真っ最中の教室のドアを開けて視線を残らずかき集めるという死のイベントを回避できた嬉しさからである。普段の生活でこんな言葉を使う恥ずかしい奴など今時いまい。

「超ラッキーじゃん」
「恥ずかしいやつだな……」
「はぁ?」
 鳩村涼子は、突然何を言われたか判らない。と言いたそうな怪訝な表情でこちらを見つめた。
「ポッポがあまりに期待に応えてくれるから」
「……遅刻常習犯の堕落人間の癖に妙に偉そうね、アンタ」
 彼女は、腕を組みこめかみに血管を浮き上がらせて(多分錯覚だろう)僕の前に仁王立ちした。というか、遅刻常習犯というだけであそこまで言うか? 普通。
 まぁ、彼女はいつもこんな感じなので、特に気に止めることはしない。
「ごめん、怒らないでよ」
「怒ってないわよ」
 それでもなんとなく、謝っておいた。
「それより、早く鞄の中身閉まったら? ほらほら、授業始まっちゃうわよ」
「まだ時間あると思うけど」
 時計を見ながらそう答える。半ば当てずっぽうだったが、確かに休み時間はまだ半分も終わっていなかった。
「ハイハイ、口応えしないー」
 そう言いつつ、僕の背中を押して僕の机まで誘導する彼女。
「はいはい」
「はい、は一回でしょ」
「……はい」
 どうして僕の周りにはこんなにも気の強い女性がありふれてるんだろう。不思議と微妙にキャラが被っていないところなんか作為すら感じるのは気のせいだろうか。
 彼女の名前は鳩村涼子。
  チャームポイントは、生まれつきの自然に茶っぽい髪。そして、一重なのにパッチリと開かれた猫のような瞳。だと自分で豪語している。
  鳩なのに猫とはいかなることか。
 それで通称はポッポ。鳩だから、ポッポだ。なんとも安易過ぎるとは思う。しかし、あだ名なんて妙に凝ったあだ名より安易な方が定着しやすいものである。
 そして、僕との関係性といえば、クラスメイトというこれまたありふれた設定。しかし、そこに幼稚園から一緒。なんて言う腐れ縁設定は付加されていない。僕はこの高校に編入してきたわけだから、彼女とはせいぜい一年程度の関係でしかない。
 それでも、彼女とこんなにも親しく接することができるのは、明らかに彼女の性格による恩恵だろうと感じずにはいられない。
「はい、座ってー」
 ドスン、と僕は半ば無理やりに席に着かされた。ちょっと痛かったが、口には出さない。
「ほい、これ」
 彼女は、間髪いれずに机上に投げるように何かを置いた。
 これは、ノート?
 あ、そうか。
「……ごめん、サンキュ」
 チョップするように片手を挙げて、罰が悪そうな表情を彼女に向けた。
「…ったく。アンタが遅刻するたびに他の人の二倍腕の筋肉を酷使する私の身にもなってよね」
 ここで、誰も頼んでない。なんてクールな台詞は決して吐けない。その後の反応が怖い、という恐怖が半数意見を占めているが、純粋に感謝もしているからだ。
「あー、もうつっちゃうよー。つっちゃうよー」
 いやんいやん、と言わんばかりに身体を揺らす彼女。
「いきなり何を始めようと言うわけ?」
「こんな可愛らしい仕草を前にそんな台詞よくも吐けるわね。感服だわ」
「……病院、紹介しようか?」
「アホか! …そんなんじゃなくて。ほら、わからないの? 気がきかないわねー」
 ほら、のタイミングで彼女は僕に右腕を差し出す。
 あぁ、なんて言いつつおもむろに彼女の右腕を取って、揉む。
「そうそう、なーんだ。ギブアンドテイクってのがわかってるじゃ」
 ふふん、とばかりに胸を張るポッポ。今となっては僕にもよくわからないが、その仕草が妙に得意気で少しばかり可愛げだった。
  だからちょっとした悪戯心が芽生えてしまった。
「なにっ!? 凄まじい筋肉だ…!! ポッポ……、お前あの伝説の破壊神だったのか……?」
 とはさすがに言わなかったけれど。
 ………。
 停止。
「……何?」
 突然止まったので疑問に思ったのだろう。彼女は怪訝そうな表情で僕の顔を覗き込んだ。
「いや別に……」
 ここで完全に悪戯心を抹消しておくべきだったのだ。後悔後に立たず。
「……ねぇ、何にやにやしてんのよ……」
「いや……、別に」
 とか言いつつも、今の僕の表情は完璧に自分の想像したことが僕のツボにはまり、爆笑を止めるのに必死な顔になっていることだろう。もう自分でわかる。
 そんな表情を隠すのに必死で、彼女の表情が判らなかったことが敗因だったと、後の僕は語る。
「アンタが何考えてるかなんて、お見通しなのよっ!!」
「え? ……ぐあぁっ!」
 破壊神の拳が見事な弧を描いて僕の顎を砕きました。
 星が見える……。
 派手な音を立てつつ、椅子から落下。
「いてーよ!」
 言いつつ、顎を擦る。良かった。本当に砕かれたかと思った。
「あーら、ごめんなさい。破壊神の血が……ね? あぁ、まだ収まりそうにないわぁ〜。誰か殴らせてくれないかしら、誰か」
 なんで判るんだよ…。人の心を勝手に読まないでほしい。僕のプライバシーはどこへ。
 凄い睨みが飛んできた。
「……ごめんなさい」
「よろしい」
 うんうん、と一人で頷いている彼女。
 …くそぅ……、いつか絶対に勝ってやる……。なんて、物騒な台詞を頭に浮かべる。
  ……まぁ、もちろん言葉でだけれど。僕は暴力は好まないのだ。
 そんなことを考えて、僕も一人でうんうん頷いた。
「よ、重役出勤の月乃君。相変わらずお前ら仲いいなぁ……。付き合ってんのか?」
 そんなやり取りをしていると、この一年でもう聞きなれた赤坂大地の声が聞こえてきた。
「なぁっ!? ……ちょっと、ばかなこと言わないでよっ! ばか!」
 僕は地面にまだ尻餅をついている状態で、彼女の顔は斜め下から見上げるような感じだったのだが、僅かに覗ける彼女の顔は、何故か真っ赤に染まっていた。
 羞恥でだろうか。
  いや、それよりも、思いっきり否定された存在の僕と、二回も馬鹿と罵られた大地はすごく可哀想だとか思わないんだろうか。
  まぁ実際傷ついたのは僕の純粋な心だけで、当の大地の方は実にあっけらかんと「わっはっは」なんて笑っていたので、気づかないのは無理もない。
  っていうか、僕、視線的に地べただしね。
  そろそろこの展開の賞味期限も過ぎる頃だと判断して、ズボンに付いた埃を叩きながら立ち上がった。
「大地…、おはよ」
「おぅ、社長。おはよーさん」
 赤坂大地は、先程僕がやったように、眼前の空気にチョップをして挨拶の意を示した。
「社長はやめろって……」
「かかか、まぁいいじゃねぇの」
 赤坂大地。ポッポと同じく僕のクラスメイトだ。性格は、まぁ表面はこのやり取りからも判るとおりお調子者、ひょうきん者。しかし、これはまた別な話になるのだが、言う時はバッチリ言ってくれるという、実に頼りになるやつだという事を僕は知っているので、僕は彼を高く評価している。
 ちなみに、どうして社長かと言うと
『だって、編入生の癖して重役出勤なんて肝のある奴ぁ将来大成しそーだからな』
 とのことらしい。
  彼が僕のことをこう呼ぶたびに、僕は拒否の意を示しているのだが、彼は絶対に受けようとしない。なので、最近では僕も半ば諦めている。というか、ぶっちゃけ慣れてきた。
 なんて僕が思い出に想いを巡らせていると、大地が自然な様子で言った。
「なぁ」
「なんだー?」答える僕。
「なあにぃ?」答えるポッポ。
 ちょっと言いにくそうに、視線を一瞬逸らし、その後に頭を後ろ手でぽりぽりと掻いてからようやく次の言葉を発した。
「二人とも今日の放課後。……時間あるか?」


4.『fancy coffee shop』


「いらっしゃいませー!」
 通常より多少(?)インパクトのある制服の店員が、出迎えた。
  ……これは、なんだ?
「大地。話がある」
「え? なんだよ」
「この制服に対する一般的見解についてお前と真剣に話がしたい」
 大地は、僕の話などそっちのけで、出迎えてくれたウェイトレスさんに夢中になっていた。
「ったく……」
  悪態を吐いて、僕は頭をぼりぼりと無造作に掻き毟った。
  大地の視線の先ををちらりと一瞥する。
  その視線の先には、ニコニコと溢れんばかりの笑顔を振りまくウェイトレスさんが立っていた。
 頭に飾られたフリル付きのベレッタ。そして、清楚で真摯なイメージを醸し出す黒いワンピース。更にその上には純白のフリル付きのエプロン。
 そしてトドメと言わんばかりの、眩い笑顔。恐らく、雇用段階で容姿端麗な人物しか採用していないのだろう。店内どこを見渡しても店員さんは美人しかいない。
「くっ……!!」
  やばいぞ……。
  これはやばい……。
  何がやばいって……、僕も洗脳されそうだ。
 大地があまりにも自然に、そしてちょっと真剣な様子で放課後の予定なんか聞いてくるものだからと、特に疑いを持たなかった自分を後悔する。
  あいつがああいう態度の時にろくなことはないって……、自分の学習能力のなさが恨めしい。
「3名様ですね? こちらにどうぞー」
 可愛らしい制服の女の子が空いている席へ案内をする。
  ……開いた口が塞がらないとは正にこのことか。
「……なぁ、ポッポ。逃げるか?」
「………」
 呼んでも反応が無い。
「ポッポ?」
  不思議に思って彼女の顔を見ると、
「…………」
 僕より大変な顔をしていた。
「お、おい! ポッポ。正気を保て……」
「……え? あ!? う、うん!」
 彼女の肩を掴んで前後に揺さぶると、彼女はやっとのことで反応を示してくれた。
「大丈夫か?」意味も無く真剣な様子で聞く僕。
「あー。…うん」はぁ、と短い溜息。「これは、ちょっと正直アレだよね」
「うん。アレだな」
 なんて二人でしみじみと語っていると、大地の声が聞こえた。
「おーい。二人とも早くこっちこいよ」
 背後を振り返っても、もうそこに誰もいなかった。
  訝しげに思って、店内を見渡してみると、いつの間にか大地は一人席に着いてリラックスしていた。「おーい」と僕らを呼んでいる大地は、すごい笑顔だった。
「あんな顔見たことねーぞ……」
「うん……」
 なんだか嫌になってきた。
 一瞬本気で帰ろうかと思ったが、意外にもこの店は一般(この場合極めて特異的な趣向を持たない人間という意味であるが)にも人気があるらしく、店のカウンターの前で突っ立っている僕達は明らかに後続の客の邪魔になっていた。
「とりあえず、席に着くか……」提案する僕。
「そだね」浮かないながらもポッポもそれに同意した。


5.『意外と……』


「じゃあ、とりあえずアイスコーヒー」僕は定員さんを呼んで注文した。
「あ、私も同じので」ポッポもついでに注文する。
 可愛らしい制服の定員さんは上目遣いで注文を繰り返して確認をとると、笑顔を一度振りまいて厨房の方へ帰っていった。
 向かいの席に一人で悠々と座っている大地のテーブルの前には、既にアイスコーヒーがあった。どうやら先に注文を取っていたらしい。得意気に足なんか組んでいる。
  そして、視線はそのまま真っ直ぐ向こう側の席まで届く。どうやら、一人で来ている客のようだ。
 後姿しか見えないが、どうやら背丈的に僕たちと同じくらい……、いや、もう少し幼いくらいだろうか?
 あのくらいの子もここにくるんだなぁ…。
  なんて思っていると、その客にフルーツパフェが運ばれてきた。
 横顔がちらりと見える。
 あれ? あれって……。
  もしかして。
「で……、どうよ社長…。お前も実は好きだろ? こ・う・い・う・の」
 大地は仰け反らしていた姿勢から、一転、テーブルに肘をつけ手のひらを頬に寄せて囁く様に言った。実際に囁く気など無いのだろう、声が弾んで段々と大きくなっている。
「お前…、待……」
「へぇ……、先輩はこういうのが好きなんですか。こ・う・い・う・の・が」
 そう言って、パフェを口に運びながら、大地の後ろに座っていた客がこちらを振り向いた。
  あぁ……。間に合わなかった…。
「なるほど…、そうなんですか」彼は、無表情のままモグモグとパフェを頬張り続けている。
「あれ!? お前、黒川か?」大地も気づいたらしく、そちらを振り返った。
「こんにちは、久しぶりです。大地先輩、鳩村先輩」ニヤリ、と意地悪そうに微笑む黒川聖。「それに、フリフリエプロンが大好きな月乃先輩」こんな横柄な態度でも、一応僕たちの後輩である。
「おう、久しぶりー」「こんにちは」大地とポッポはそれぞれに聖と挨拶を交わしていた。
「ぐっ……」僕はなんとなく唇を噛む。
 なんでこいつは俺ばかりにこう、絡んでくるんだ…。
  いや、悪意は感じないが…。
  それにしてもムカつくのは確かである。
「ふん。お前だって、こんなところにくるなんて相当好きなんだろ? しかも、一・人・で」思いっきりいやみを込めて言ってやった。
「一人で来ちゃ悪いんですか? ファミレスに。ここのデザート美味しくて有名なんですよ? あれ? もしかしてデザートのこと知りませんでした? じゃあ何が目的でここに来たんです?」そこまで捲し立てるように言って、ニヤリと再び口だけが笑う。コイツの場合目が笑っていないから恐い。
 ダメだ……。口喧嘩でこいつに勝てるわけが無かった…。
  仕方ないので、出来るだけ無視することにしよう…。
  そのタイミングで間髪入れずに大地が本来の目的(と思われる)会話を始めた。
「で、で? どの子? どの子なんだよ?」ちらりと店内を駆け回る店員さんを見る大地。目がすごく楽しそうである。
「どれなんですか? 先輩のフェチは」聖が混ざってきた。
 無視できねぇ……。
  しかもフェチっておかしいよね、明らかに。
「僕は別に………」大地に釣られて一瞬そちらを見たが、すぐに目を逸らした。
 なんとなく、隣に座っているポッポが気になって彼女を見る。
「あ……」彼女は僕の視線に気づき、すぐに自分の膝元に視線を移した。
 あの反応の速さを見ると、どうやら彼女もこの話に関心があるようだった。
「うーん………」僕は迷う。
 雰囲気を壊さないためにもここは、一応話に乗っておくべきだろうか。
  ちらりと視線で探ると、二人とも黙ったままこちらに意識を傾けていた。
  仕方ない……。
「いない。っていうのはダメなんだろ? どうせ」肩を竦ませながら質問した。
「もちろん。ちなみに俺は……。あ…、あそこ。今コーヒー持ってた子いるだろ? ……そっちじゃなくて、あの」気づかれないようにという配慮からだろうが、どうにも要領を得ない。
「あの子? 今角の席に行った子。髪長いね」ポッポがいつの間にか運ばれてきていたアイスコーヒーを飲みながら言う。
「そうそう! ポッポも可愛いと思うだろ?」大地は顔をニヤけさせている。自分の趣向を理解してくれて嬉しいのだろう。
「………」
 そんな二人のやり取りを見て、なんで僕はここにいるんだろう。なんて思っていたことは、さすがに言えなかった。
「うーん……。そう言えなくも、ないかもね」あはは、とポッポは笑った。
 大地は満足したような顔をしていたが、僕にはその態度がどうもはぐらかしたようにしか見えなかった。
 二人のやり取りから視線を離脱させつつ、アイスコーヒーを一口飲む。
  この席は窓際だったので、外がよく見えた。今日は天気が良い。こんなところにこないで散歩でもしていれば良かった。
  ぽかぽかと日光が降り注ぐ。
  目を瞑る。
  あぁ、なんか眠くなってきた。
  ………、
「おーい」
 だが、僕の安眠は大地によって遮断された。
「ん? あぁ、…何?」
「何じゃねーだろうが。なんでお前は自分が話題の中心になると逃げるんだよ……、ったく」腕を組んで大地が言った。多少、人を威圧する効果のある座り方だと思った。
「そうですよ。ダメですよ」聖の追撃が加わった。
「うーん……、なんでだろうね」わざとらしく惚けてみせる。
「はいはい…。ま、いいさ」大地と聖も実際のところは僕の性分を判ってくれているんだろう。その話題の言及は避けてくれた。
 そして、リフレイン。
「で? どの子?」むっとした顔つきから一変、大地は身を乗り出して、先程と全く同じ質問を繰り返してきた。
 ………。
  どうやらこれは避けられない議題のようだった。
「……過ぎる好奇心は不幸を呼ぶぞ? 大地」溜息を吐く僕。もう半ば諦めていた。
「はん、俺みてぇなポジションは死亡フラグが立たないって相場が決まってんだよ」大地は唇を僅かに歪ませた。
 何を言っているのかよく判らなかったが、とりあえず決まっているらしい。
「…わかったよ」
 とりあえず会話を早々に打ち切って、視線だけを動かして素早く店内を見渡す。
「ふむ」
 僕の得意技、プロもびっくりのチラ見術である。
  普通に見ても別に不審がられないとは思うが(僕よりよっぽど不審な奴は沢山いるため)、そこはプライドの問題なのだ。
  知られずにやる。この背徳感がなんとも言えない。
  というか、ぶっちゃけ結構本気になっている僕である。
  この目付きを見て、一体誰が先程まで相当やる気がなかった男だと見破ることができるだろうか。
「おおっ、社長ノッてきたネっ!」そう言う大地は、舌を出しながら親指を立てるというなんともファンシーな行動をしていた。しかもウィンク付きだ。
「僕はやると決まったら突如本気になる男だからな。いくぞ…」なんとなく、渋く言ってみる。「後悔するなよ……」僕は、目を瞑った。
 ファンシーなポーズを解除して、大地が訝しげに呟く。
「お前いきなり無駄に本気だな……」 
「………」
 僕はその声にすら答えない。
 集中だ。
  先程のチラ見で既に女の子全員のターゲッティングは完了している。
  僕の視界上に全ターゲットが揃うのを待つ。見るのは一瞬だけで良い。大事なのはタイミングだ。
  今店員さんは全部で4人。
  フロアに残存するのは3人。
  数秒前、一人厨房に入っていった。
  彼女が出てくる瞬間が勝負だ。
  店員が厨房に入る時。それは、注文を伝える一瞬だけだ。つまり……、
「……はいっ! トーストセットお願いしまーす!」
 注文を伝え終わった直後がタイミング―――!!
「………ここかっ!」
  活目。
  僕の研ぎ澄まされた視界に、数人の可愛らしい制服を身に纏った女の子が映る。映ったのは、それだけだ。他の物体は削除してある。
  そして即座に、視線をテーブル上に置かれた自分の手元に戻した。
「ふぅ……」
 気づけば、額から汗が滴っている。片手でかっこ良さ気に汗を払った。
  体力を著しく消耗していた。
  ………。
  何をやっているんだろう。僕は。
  思い直す。
  ……軽く鬱になった。
「……で、今の一連の流れにはどういう意味があったんだ?」
「え? あ、…あぁ。うん」息を整える。「とりあえずね、全員記憶した」
「………は?」大地は呆然とした顔で僕を見つめ、その後すぐに目を細めた。「ウソだろ?」
「いや、本当」僕は、全員分の容姿、特徴、備品について事細かに説明してやった。
 大地は信じられないとでもいいたげに目を丸くした。
 はぁ、と大地は脱力して身体を長椅子に預ける。
「っていうかさぁ。普通に見ればいいじゃん……。お前、才能を絶対無駄に使ってるよな」
「今自分でそう思っていたところだから、言わないでくれ」
「うはは、馬鹿だ」大地は突然僕を指差して笑い出した。
「うるさいな」照れ隠しとばかりに、突き出された指を叩く。 
  やはり乗らなければ良かったかと一瞬思ったが、大地が心底楽しそうに笑っていたので、まぁこんなのも良いか。と思い直した。
「それで? お前のタイプはどれだよ」
「んー。そうだなぁ……。大地の言ってたロングの子も嫌いじゃないけど、僕はそれよりは……」そこで、ちょっと言い惑う。なんとなくこんなことをこそこそやっていることに改めて引け目を感じてきたからだ。
「なぁ、やっぱり止めない? 悪いよ。こういうの」
「いや、一生のお願いだ……、頼む」真剣な顔で大地が手を合わせる。
 一生のお願いっていうのは、一周期のなかで何回利用可能なんだろうか。今のところ大地は僕に対して、少なくとも七回は使っている。
「お前、これで八回目だろ? やっぱり嫌……」
 と、いつものように冗談半分に抗議の言葉を言おうとした時だった。
「ダメっ!!」
 一瞬、空気が止まった錯覚がした。
  と言うのも、言葉を発したポッポの表情があまりにも場にそぐわない程に神妙なものになっていたからだ。
  ……あ、と、ポッポは驚いた表情になる。自分が叫んだことに今気づいた、とでも言いたげな表情だ。
「……あ、あれ? ご、ごめん。あ、あっはは……」と、笑って見せるが、やはりどこかぎこちない。
 羞恥からか、場に耐えられなくなったからなのか。とりあえず、ポッポは、手元のストローに口をつけた。しかし、そのコップにはすでに何も入っていないため、空気を吸い上げる音しか出ていない。
  ………。
  先程から妙に黙っているから、妙だとは思っていたが。一体どうしたと言うのだろう。
  そんなに僕の答えを聞きたいのか?
  ……それもなんだかおかしいような気がする。そもそも、彼女がそんなことを気にする理由が見当たらない。
 本人に聞いてみるのが一番だろうか。
「ポッポ?」彼女に声をかける。
 じぃっと自分の手元を見ていた彼女は、僕の声で一瞬びくりと反応した。
「…どうしたの?」訝しげに思って、俯いている彼女の顔を覗き込む。
「な、なんでもないってば!」言いつつ彼女は、僕から顔を逸らした。「ち、ちょ…。みないでよっ……」
 仕方がないので、彼女から目を逸らして大地に助けを求めるように視線を送る。
 大地は、なるほどなぁ。とでも言い出しそうな顔つきで、僕とポッポを交互に見た。
「ははぁ……。今まで黙ってたのは、集中してたからか……」大地は言う。「そういや、何回かちらちら見てたような気もするしな……。なるほどねぇ」
「何言ってるかさっぱり判んないよ」と僕は抗議したが、大地は何も言おうとしないので追求することは諦めた。
「まぁ、一つだけ言える事は…」大地は人差し指を天井に向けて得意気に話した。「俺もポッポも、黒川もお前の答えが聞きたい。ってことさ」
 なぁ、と大地がポッポに同意を促すように視線を送った。
 ポッポは「……う」と、一瞬唸るような声を上げたあと、「うん……」と短く答えた。
  ………仕方ない。
「こういうのは金輪際止めてくれよ?」
「わかってるわかってる。いやぁ、ここまで来るのに妙に長かったなぁ……」しみじみと大地は言った。
「ですねぇ。出し惜しみはいけませんよ」しみじみと、聖も言う。
「こういうの本当に嫌なんだよ……」
「まぁまぁ、それで?」大地は身を乗り出した。
 そして、こうして改めて意識を傾けてみると判るが、確かにポッポも聞き耳を集中して立てている。
  あの態度の真意はついにわからなかったが、こういう態度のポッポを見るのは初めてだったので、なんとなく嬉しい気持ちになる。
「……全員、あそこを見ろ」
「あそこ?」二人の声が重なる。
「いいか? 今、カウンター」とだけ短く答える。
 カウンターには、店員さんが一人、笑顔を振りまいて新規の客の案内をしていた。
  これも一応タイミングを図ったつもりだ。このタイミングなら目は合うまい。
  店員さんは、綺麗に切りそろえられたボブカットで、その髪は光に照らされると淡い翠色に見えた。全体的に小柄で、見た目によっては多少華奢と言えるかもしれない。顔もとても端整に整っていると思う。笑顔はとても無邪気で、店内に響く彼女の声も、彼女によく合った可愛らしい声だ。
  そして、彼女が動くたびに揺れる胸に付けられたプレートには、『河合』と印字されていた。
「ふむ、カワイさん。ね」大地が視線を戻して呟いた。
「……お前、目悪くなかったっけ?」確かそういう風に記憶していた気がする。
「本気を出せば造作もないさ」
 ……どこをどう本気にすればそうなるのか検討もつかない。
「なんですか、本気って…」聖も怪訝そうな眼差しで大地を見つめる。
「で? これで良いか?」
「おう、満足満足。なるほどね、ああいうのがタイプなのか……。まぁ、あくまでタイプってだけだしな」大地は鼻を一度鳴らして、椅子の背もたれに寄りかかった。
「まぁ、そうだな」
 僕の言い分としては、明るくて無邪気(ついでに小柄)。っていうのがポイントなのだ。そういう意味では、隣に座るポッポもタイプである。と言える。けれど、今の関係を崩したくない僕にとっては、口が裂けてもそんなことは言えない。
  ちらりとポッポを見る。
  彼女はまだストローに口をつけて、なにやら考え事をしている。
  どうやら、自分の世界に入っているようだ。
「…ポッポ、どうしたー?」
 ふざけて、目の前で手のひらを振ってやろうと考え、手を伸ばす。
「……ちょっと、ごめん」と、突如ポッポが席を立ったのでそれは空振りに終わったのだが……。


6.『Shut bustle inside』


 ………。
 ポッポの立ち方が、妙にふらりとしていた。少し心配になる。
  今日は調子が悪いのだろうか?
  なんてぼんやりと思考を巡らせていると、フロアの方から大きな音がした。
「きゃっ……」
 驚愕の声。
  女性のものだ。
  反射的にそちらに視線を送ると、フロアの歩行スペースにポッポと先程の河合さんが倒れていた。
  河合さんが運んできたものであろう。コップと水がトレイから零れて、二人は頭から水を滴らせている。
「ポッポ……!」
 駆け寄ろうとする。
「………」
 ポッポはこちらを振り向いて、僕と目を合わせる。
  視線が、来ないで。と言っていた。
  ……恐らく騒ぎを大きくして、店員である河合さんを悪役にしたくないのだろう。こういう時悪くなるのは原因がどっちにしろ店員の方なのだ。
  僕は、その意図を理解して、ゆっくりと座りなおす。
  大地もわかっていたようで、神妙な顔つきで二人を見ていた。
  その時だった。
「痛っ……」
 突然、ポッポが声を上げる。
  指先が、赤い。
  どうやら落とした際に割れたコップで指を切ってしまったらしい。細い指先からは鮮明な赤い血が伝っていた。
  指先を伝って、ゆっくりとそれは河合さんの手のひらに落ちる。
  それでようやく事態に気が付いたのか、河合さんは驚愕の表情になり、謝り始めた。
「も、申し訳ありません!! お、お客様、血、血が…」
「……ううん、大丈夫。貴女こそ怪我はなかった?」ポッポが聞く。
「わ、私は全然、大丈夫。です。本当に申し訳……」混乱しているのだろう、泣きそうな声になっている。
「大丈夫よ。それより、ごめんね。お盆」謝り続ける彼女を制するように、ポッポはしゃがみ込んで割れたコップをトレイに載せ始めていた。
「あ、いいんですお客様! 危ないですから……! あの、その……」河合さんは涙を含んだ声で止めようとするが、すでにトレイの上に全て収められた後だった。
「はい。今度は気をつけてね」ニコリと、まさに今ここでは何も起きていなかった、と言わんばかりの笑顔で微笑みかけて、トレイを返した。
「は、はい……。あの、せめてタオルだけでも」
「ありがとう」
 ポッポは、額に付いた前髪を邪魔そうに払って、もう一度微笑んだ。その仕草は、優雅だった。
「あの…、ええっと。それじゃあ、こちらに……」
 そして、二人はその言葉を区切りに厨房の中に入っていった。
  それから数秒。
  静まり返っていたフロアは、再び賑わいを取り戻し始める。
  それからまた数秒して、大地のお気に入りのロングの髪の子が厨房からモップとちりとりを持って走ってきた。まだ残っている水やコップの破片を除去するためだろう。
  その作業が終わって、一呼吸ついたところで大地が話しかけてきた。
「びっくりしたな」
「ああ」と、素直にそれだけ言っておいた。
 聖も雰囲気を読んでいるのか、口を挟まない。こいつはこういう能力に妙に長けているのだ。
「なぁ。一つ聞きたいんだが」
「なんだ?」僕は答える。
「お前、あの時ポッポに駆け寄らなかったのって、ポッポの目がこっち来るなって訴えてるって感じたからか?」
「ああ」
「……。そっか。それならいいんだ」
 大地は笑いながらそう言ったが、
  どうしてだろう。
  僕がこの時の大地が今日最も真剣であったと感じたのは。
「じゃあ、ポッポが来たらそろそろ帰るか」大地が言う。
「…ああ」
 どうしてだろう。
  この時、何か腑に落ちない感覚がしたのは。


7.『夕暮れ時1』

 
 夕暮れに赤く濡れた国道沿いを、三人で並んでゆっくりと歩いている。
  聖は、店を出るところまでは一緒だったのだが、その後用事があるからと言ってさっさと帰ってしまった。
  なんて自由奔放な奴なんだ……。
  憎たらしいチビ後輩への回想を断ち切って、視線を右方向へ移す。
  車が何台も耳元で轟音を鳴らして忙しなく走り去っていく。
  今の時間帯は丁度、都会部に仕事へ出ている人たちが帰ってくる時間だった。
  ビル間から覗く夕日がまぶしい。
  夕日から目を逸らす。
  自然、左側をとぼとぼと歩くポッポと目が合う。
  あくまで不自然ではないように話しかけた。
「手、大丈夫か?」
 彼女の指先を見る。
  指先にはささやかながらも包帯が巻かれている。少々深い傷だったのだろう。包帯には少しだけ血が滲んでいる。
「あ……」と目を逸らしてから、静かに俯いて「……うん」とだけ答えた。
  まさか話しかけられるとは思っていなかったとでも言わんばかりの反応である。
  ……何か様子が変な気がする。気のせいだろうか。
  まるで、悪いことをした子供のような。
「そっか、良かったな」
 なんとなく気まずい空気を感じたので、そうとだけ言って、視線を前方に戻した。
  それにしても、こんな反応をする原因が、今日一日の内に何かあっただろうか。
  ……ない、と思う。
  というか、今日のポッポの行動は人として百点満点だったのではないのだろうか? ああいう時に怒鳴る奴も世の中にはいるってのに。大したものだと思う。
  厨房内で彼女とも和解したらしいし。元々険悪とした空気ではなかったし、仲良くなった、ということだろう。
「ふむ……」
  というわけで、彼女がこんなに落ち込んでいる理由が見当たらない。
  うーん。
  どうしたものだろうか。
  女心と秋の空って言うし…。今は放っておいたほうが良いのかもしれない。
 僕はとりあえず頭の中の整理を終えることにした。
「なんか、最近暗くなるの早いな」と同時に大地が空を見上げてゆっくりと口を開く。
「ん、そうか?」
 独り言のようにも聞こえたが、この状況を考えれば僕に話しかけているのだと理解するのは容易だった。恐らく、ポッポと僕の間に溜まりつつあった微妙な空気を散会させようとしてくれてのことだろう。
「おう、なんか寒くなってきたような気がしないでもなくもない」
「どっちだよ」
「かかか、まぁ。そろそろ夏も終わるなぁ、なんて思ってよ」大地の視線は依然空に向いている。
「そうだな」僕もなんとなくそちらを見上げてみる。
 ポッポも、釣られてそちらを見たような気がした。
 けど、あえてそちらは見ない。彼女も今はその方が良いと思っているだろう。
「夜が、長くなるな」ポツリと、大地がそんなことを言った。
「そうだね。夜は、嫌」久しぶりにポッポも発現する。
「なんだよ、急に」僕は、おどけながら言葉を返す。
 前方から音。
 ガードレールに止まっていた鳥が、僕たちの気配に気づいたのか、翼を広げて赤い空に飛んでいった。
  それを、意図せず見送る。
 どうしてか、会話は続かない。
  なんとなく彼の表情を横目で覗き見る。大地はやけに真剣な表情をしていた。
  大地は滅多にこんな表情をしない。つまり、彼にとって相当不安な事を彼は今抱えている、ということか。
「はは、どうしたんだよ?」僕はあえておどけ続けた。正体不明の重い空気に両挟みにされるのはさすがに辛い。「心配事? まさか、俺んち門限に厳しいんだよね。とか?」
「…ちがうっつの。まぁ、確かにウチの親父は厳しいっちゃ厳しいけどな」彼もこちらを見て苦笑する。
 こちらに振り返った大地の笑顔は、半分ほど赤い光に染められている。
「そっか」
 大地はこちらの意図に気づいてくれたらしい。
  よかった、と思う。
  正直、二人のこんな姿を見るのはいたたまれない気持ちになる。学校にいる時とあまりにも違うものだから。
  共感するにしろ意見を言うにしろ、二人の沈む理由が判れば対処のしようもあるものなのだが。
  いくら探りを入れようとしても、二人ともそれを話そうとはしないのだから仕方が無い。というか、落ち込んでいる、ということすら隠そうとしているように思える。まぁ、ぶっちゃけバレバレなのだが。この二人は感情が直ぐ表情に出るから読み取るのは容易なのだ。
  大地の今日の誘いも、気分を紛らわすためのものだったのだろう。
「それで? 大地は何を心配してるんだよ」
 更につっこんで質問をしてみる。あえて、真剣な雰囲気は出さない。
  不安というのは、共感することで大抵緩和できることが多い。それは、不安を誰かに「分け与える」ということなのだが。
  つまり、僕自身を若干ではあるが犠牲にするのだ。
  しかし、僕はそれでいいと思う。それよりも、僕はこの二人がこんな表情をしていることの方が心が痛かった。
  だって、この二人は
 僕にとって、最初の友達だったから。
「んー、とな。別にそんな切実なもんでもないんだ。なんつーか。突発的で偶発的で、俺自身よりか俺に近しい奴がそうなるのが恐いっつーか…」
 なんだかやけに回りくどかった。
「なるほど」 意味は判らなかったが、とりあえず合の手を入れておく。こうした方が会話がより円滑に進みやすい。「それで? そうなるってのはどういうこと?」ちなみに、会話全体が支離滅裂な場合はこちら側から話の切り口を提供してやると、より円滑に進む。
「……お前、ニュース見てないのか?」
 ニュース? 予期していない単語が出てきたので一瞬詰まった。
「僕の家テレビないんだよ。知ってるだろ?」
「あぁ、そうか。確かに」大地は含み笑いをする。
 話しているうちに少しずつ元気になってきたみたいだ。本当は喫茶店にいる時もずっと不安だったのだろう。それを空元気で誤魔化していたのだ。 それで、誤魔化しているうちに本当に忘れてしまおうと思っていたのだろう。僕たちに悟られる前に。
  まぁ、それは失敗に終わったわけだが。
  …いいやつである。
「それで」大地は再び話し始めた。「最近、やけに物騒な事件があってな」
 もうバレてると判ったのだろう。こちらの気遣いを無碍に扱うまいと、大地は一転滑らかに話し出した。
「物騒? テレビがないから知らないけど、極的に言えば物騒な事件ってのは毎日どっかで起きてるもんじゃないのか?」
「いや、そういう感じじゃないんだ。ああいうのは……、そうだな。どこか現実的じゃないってとこがあるだろ?」
 確かに。それはそうだと思う。
  実際に被害に合うのは自分じゃない、そんな安心するための妄想を誰もが心に秘めている。それはある種の、罪だ。
「そういうのはランダムで、しかも自分に当たる確率は天文学的に低い、なんて皆思っているからだと思うんだけどな」大地は言う。
「それは……、ある程度仕方がないと、思う」
「本当はランダムでも天文学的でもなんでもないんだけどな」
 そう。アレは起こるべくして起こるのだ。…起きたのだ。
「あー、話がちょっと逸れたな。でだ、俺もまぁそう思う人間の一人なんだが。今回はちとな、危機感を覚えざるを得ない」
「なんで?」僕は笑いながら適当に返した。「まさか、この街に殺人犯でも潜んでるってのか?」
「そうだ」
「は?」
 どうしてか、一瞬空気が凍った気がした。
「…冗談だろ?」僕は聞く。
「おいおい、冗談でここまで真剣になるかよ」大地は少し怒り気味で言った。
「でも。僕らが被害に合うって決まってるわけでもないだろ。そもそも、なんでそんなことを知ってるんだよ」捲し立てるように聞く。明らかに動揺している、と分析できる。僕は小さく舌を打った。
 いつの間にか、足を止めていた。
  静寂が辺りを包んでいる。
  小さく呼吸を整える。息を吸って、吐く。冷静に努めなくては。
  頭を回転させる。
  そうか、…だからニュースか。
  そう思うと、確かに今日の街の様子若干おかしい。いつもはこの辺りだと若者がたむろして騒がしい雰囲気があるのに。今日は、何故か人がいなすぎるのだ。…まぁ、さすがに、ニュースを知れば血気盛んな若者も警戒するのかもしれない。
  それだけだ。他におかしいところはない。
  それに、ニュースでそれだけの報道をしたならば喫茶店など営業していないはずだし、そもそも学校も休みになったはずだ。
  しかし、それはなかった。普通に営業も授業も行われていた。
 そして……。
「……ね、ねぇ。でも、その殺人犯は今はどこかに行っちゃったかもしれないじゃない」ポッポが話に食いついてきた。
 そうなのだ。
  そういう犯人はすぐに場所を移動するものだと何かで見た気がする。
  犯行を行った場所、しかも恐らく警察にも知られているだろう地域に留まり続けるなんて狂気の沙汰じゃないか。
 …それにしても、急にどうしたのだろう。彼女もこの事件について不安に思っていたのだろうか。彼女は実家暮らしなので当然テレビがある。なら、ニュースを見ていて不安になってもおかしくはないのだろうが。
「いや、まだこの街にいる」
 そんな希望を斬って捨てるように、大地は即答した。
  手のひらが、僅かに汗ばんできていた。なんとなくポッポが気になって横をみる。ポッポは震えていた。
  いつも強気な態度のポッポが、こんなに怯えるなんて…。
  急に大地に対して怒りが沸いて来た。自分で話を促しておいて理不尽な話だと思うが、一転して冷徹なその態度が何故か気に食わなかった。
「どうしてそんなことが判る?」ポッポを庇うように少し前に出る。「それもニュースでやっていたのか?」
「だとしたら、もっとパニックになってんだろ」
「それじゃあ、なんだ」僕はもう一歩前に出る。「それはお前だけが握っている情報ってわけなのか?」
 いつの間にか腕にポッポがしがみ付いていた。震えが増している。僕は、自分でもどうしてこんなに熱くなっているのか意味が判らないが、もう少しで大地に飛び掛る勢いだった。
「そうだ」彼は僕に詰め寄られても表情を崩さない。「それと…、俺の親父だな」
「お前の、父親?」
 その瞬間、何か閃くものがあった。
「ああ。俺の親父、警察の人間なんだ」大地は真摯な態度で言う。もしかしたら先程から僕が勘違いしていただけで、ずっとこういう態度で僕とポッポに望んでいたのかもしれない。「言わなかったか?」
「…いや、知っていた」
 今思い出した。
  そう、大地の父親は警察の、しかも結構上層部の人間なのだ。
「ごめん、大地」僕は、大地に向かって頭を下げる。「そういうこと…、だったんだ」
 だからあんなに、真剣だったのか。
「あぁ。バレたら大目玉ってやつだぜ」大地はからからと笑って言う。
「え? ね、ねぇ。どういうこと?」ポッポが話について来れないと言った様子で僕らの顔を見合わせる。
「大地、キミさ」僕は言う。「お父さんのデータベースに侵入したんだろ?」
「その通り」大地は胸を張るジェスチャをする。「なんとなくニュースで見てから気になってたからさ。…少し調べてみようかと思ってな。案の定、公表されてない情報が大量にあったぜ。ま、少々骨が折れたがな」
 そして、今、大地はとんでもないリスクを背負った。
「そ、そうなんだ?」ポッポは言う。「じゃあ、私にもそれ見せてくれないかな?」
「できるわけないだろ」僕は跳ね除けるように言った。
「え、…なんでよ?」不安そうな顔で僕を見るポッポ。
「公表していない情報なんだぞ。大地がそれを見ること自体重罪だし、その情報を僕らに漏らしたんだ。それがどれだけのリスクか、判るだろ?」
「あ……」ポッポは口元を手で隠し、申し訳なさそうな表情になった。「ごめん、なさい」
「いいさ。俺にリスクが多少圧し掛かる程度でお前らの安全が保障されるんならな」大地は白い歯を見せて豪快に笑い飛ばす。
 …本当は不安でしょうがないのだろう。
  なんか今日の大地は、かっこよすぎである。
「それにしても大地、さっきは本当にごめん」もう一度大地に向かって頭を下げる。「大地の気持ちを考えないで興奮して…」
「いいんじゃね?」あっけらかんと大地は言った。「だってお前、ポッポが震えてたから切れそうだったんだろ?」ニヤリ、と大地がほくそ笑んだ。「え、ええ!? そそそ、そうなの!?」反応してポッポが顔を赤くして驚いている。
「なっ!? ま、…まぁ。だって、あの時はマジで大地が残虐冷徹野郎に見えたんだって……」
「げっ、酷い……」大地は顔にハンカチを当てていた。「うう……。俺はお前らのためを思って心を鬼にしたってのに…」
 ハンカチ持ち歩いてるのか、コイツは…。
「わかってるよ」僕は即答した。「本当にありがとう。大地」
「わ、わかればいい」鼻を鳴らしてそっぽを向く大地。照れているのだろう。
 …僕は、なんとなく大地やポッポの言う「殺人犯」の危険性をなんとなくだが理解しつつあった。大地がリスクを犯してまで僕たちにその情報を与えなければならない理由。ポッポがあそこまで恐怖を示す理由。若干ながらも街の異変。これらを繋ぎ合わせると見えてくるその危険性。
  そいつは、恐らく僕の想像以上のモノなのだろう。
  素直に大地には感謝しなければなるまい。


8.『夕暮れ時2』 


「そんで、だ」大地は再び歩き始めた。「公表されてない情報はまだあるんだが…。どうして公表されないか、って理由わかるか?」
「ええっと」ポッポも大地に着いて行く様に歩き始めた。「その情報の信用性が薄い、公表した際に、パニックとか騒動とか、なんらかのマイナスな影響が起こる。とか?」
「あとは」僕も二人に追いついて会話に参加する。「上部からの、圧力か」
「ま、大体そんなとこだ。で今回の情報に当てはまる条件は」大地は一呼吸置く。「とりあえず、今でたやつ全部だな」
「なっ…!」僕は驚いた。「そんな割に合わない情報、リスクを負ってまで僕らに教える意味あるのか?」
「まぁ、よく聞け」大地は歩の速度を緩める。「まず、情報の信憑性が薄い。ってのは、今までにこんな事例がないからさ」
「こんな事例がない? どういうことだ?」
「ありえないほどの、大量虐殺、及び失踪」大地はきっぱりと言った。
 びくり、と隣にいるポッポが反応した。
 恐がっているのだろうか。
「毒、か?」僕は言った。
 それならば、在り得る。公表すれば、パニックを起こすのも判る。
  再び身体に汗が吹き出てきている。
  真剣に考えるほどに、現実性が増して恐怖が沸きでてきているのだ。大地は、この数日間こんな重圧をずっと耐えてきたのだろうか…。
  しかし、大地から返ってきた返答は僕の予想を遥かに上回るものだった。
「違うな。惨殺だよ。全部な」
「惨殺…?」漠然としすぎて、よく判らない。「どういうこと、なんだ?」
「無数の殴打、刃物による斬撃、そんで…、人外の力による引き千切り。見つかった死体の死因はこんな感じだと、書いてあった」
 殴打。斬撃。引き千切り。
  突如、心臓が跳ねた。
  吐き気がする。
  体中が震えていた。
「どうした? 社長」
  なんだ?
  どうして、僕はこんなに恐怖している?
  僕は。
  どこかでその景色を見たような……。
「う……。あ…」
「…お、おい!」
 視界が揺れる。
 どこだ?
  思い出せない。
  何故?
  どうして思い出せない!?
  思い出せ!
  これは、お前の命に関わる問題だぞ。月乃霞。
  誰かの声が聞こえた。
  そこで、意識は戻った。
「おい! 霞、どうした!?」大地がいつの間にか僕の目の前にいた。肩を揺さぶられているようだ。
「あ…。あぁ。なんでもない。大丈夫」僕は返事をした。
 無意識に立ち上がる。いつの間にか地面に膝をついていたようだ。
「ねぇ!? 大丈夫? 霞?」ポッポも心配してくれたのだろう、横で僕の背中を支えてくれていた。
「そんなにショッキングだったか?」大地は腕を組んで考えている素振りをした。「あんま具体的な話はしないほうが良かったか?」
「いや、そういうんじゃない。悪い、話中断させちまったな。大丈夫、続けてくれ」
 実際に吐き気は治まっていなかったが、話の続きを促した。
  どうしてか判らないが、僕はこの話を聞いておかなくてはならない気がした。
「そういうんなら、言うが……」大地は心配そうに僕を見た。「本当に大丈夫か?」
「大丈夫だってば!!」僕は半ば叫ぶように言った。
「あ、あぁ。そうか」大地は驚いた様子で頷く。「わかった」
 ポッポも目を大きく見開いて僕を見ていた。
 意図せずに、語気が強まってしまったようだ。
「……ごめん」
「まぁ、気にすんな」大地はそう言って僕の肩を軽く叩いた。「で……。さっきの話の続きだが。ここからが更に常軌を逸してくる」
「どういうこと?」ポッポが積極的に聞いた。やはり気になるのだろう。
「あぁ、さっき大量に虐殺されて、更に謎の失踪もある。って言ったよな?」大地はそこで一旦止めた。話を先に進めてもいいか? という了承を得たいのだろう。
 僕とポッポは頷く。
「失踪したやつのはまぁ、まだ理解のしようもあるんだが…。どうしてか現場には、死んだはずのやつらの指紋が残ってるんだよ。別の現場にな」
「指紋?」僕は言葉を繰り返した。「死体って普通、警察とか病院とかが管理するもんじゃないのか?」
「いや、死体って言っても、身体ごと全部ってわけじゃないんだ」大地は一呼吸置いて言った。「現場には一部分しか置かれてないんだよ」
「つまり、現場には頭だったり手だったりしか置いてないって事ね? 警察もそれだけあれば確実に死んでいると理解できるから、死亡扱いにしている。そういう事でしょ?」ポッポが言う。
「その通り」大地は頷いた。
「じゃあ、…なんだよ。死んでるはずのやつの指紋が別の現場に残っているってことは」僕は言葉を慎重に選びながら言った。「死体が、動いているってことかよ……」
「…そういうこと、だろうな」大地は答える。
「なんだよ、それ…」
 身体から力が抜ける。なんだか血の気が引いているみたいだ。
「しかも、今んとこターゲットは若い連中だけだそうだ」大地は間髪いれずに言った。僕を気遣って早く話を終わらせるようにとの配慮だろう。「だから、何か急にお前らが心配になってな…」
「…サンキュ、大地」僕は言った。
「まだ話は続くんだが」大地は鼻頭をぽりぽり掻きながら言う。「事件が起こるのは、決まって夜、らしい」
「夜……」僕は復唱した。
「しかも、オフィス街」大地は溜息を吐いた。「なんかあっても見つかりにくいんだよ。あそこ、人気もないからな」
 オフィス街と言えば、ここから橋を渡って言った先にあるビル群のことである。同じ街なのだが、こちら側は住宅街、あちらはオフィス街と暗黙で分けられていた。
 ……まてよ。
「なぁ。そんなところに、若者が夜中いるもんなのか?」僕は聞いた。
「いいところに気がつくな」大地は苦笑する。「普通はいないよな。…あぁ、言い忘れたが。殺されてるのは圧倒的に男が多いそうだ。集団の場合は完璧に男ばかり。女の場合は単独で、こちらは路地裏じゃない時もあるそうだ」
「男が集団…人気のない場所……、ああ」下品な考えが脳裏を過ぎる。「そういうことか」
「そう。だから、犯人は女なんじゃないかと、予想されてる」
 そこまで言って、ふと、大地が足を止めた。
「どうした?」僕は聞く。
「俺んち、こっちだから」彼は、僕が歩いていこうとしていた方とは別の道を指差した。
 いつの間にかこんなところまで歩いてきていた。やけに静かだと思っていたが、国道は既に眼下であった。
 すっかり話に夢中になってしまっていたようだ。
 夕暮れも、もう沈もうとしている。
「おーい!」大地が別の道を歩きながら僕に向かって叫ぶ。「早く帰れよー、夜に家にいりゃ大丈夫だからさ!」
「わかった! ありがとう!」僕も、片手を頬に添えながら叫んだ。「また明日!」
「おう! じゃあな」大地は、手を振りながら道の向こうに消えていった。
 なんとなく、横を伺う。
 ポッポも大地に向かって小さく手を振っていた。
「どうしたんだよ、ポッポ。なんか今日はやけに消極的じゃん」
「……うん」ポッポは小さくそれだけ答えた。
 本当にどうしたんだろうか。
  やけに暗い気がする。
  心なしか、ポッポの顔が影を含んでいるような気がした。
  仕方が無いので、ポッポの手を取って、歩くよう促す。
「わっ……!」ポッポは突き放して手を離した。なんだか驚いているようだ。
「あ、ごめん」思わず謝る。
「え…、私こそごめん」彼女は僅かに緊張しているように見えた。「あ、あの……さ」彼女は、俯きつつ話す。
「うん?」
「か、霞は、さ。……その、あの」
「どしたの?」僕は彼女の顔を覗き込んだ。
「す……」
「す?」
「……ん、やっぱりなんでもないよ。…ごめん」彼女は俯きながら目元を拭う素振りをした。「うん。帰ろうか」
「……ああ」
 結局、それから別れるまで、ポッポは一言も話さなかった。   


9.『眠りに寄せて』


 何をするでもなく、ベッドに寝転びながらぼぅっと天井を見上げていた。
  部屋に帰ってきたと同時に急激な眠気を感じた僕は、ベッドに一直線に向かって倒れこんだ。
 何故か、異様に眠かった。
  そういえばまだ制服を着たままだった。このまま眠ってしまっては皺になってしまうかもしれない。着替えようか、と思っては見ても身体は言うことを聞いてはくれなかった。
  気だるい。
  何故こんなにだるいのか。気づかないうちに疲労でも溜まっていたのだろうか?
  そう思ってここ最近の自分の行動を逆算してみたが、特に思い当たることはなかった。
  ……眠い。
  眠気は強制力を増していく。
  もういい。今日は眠ろう。
  きっと疲れているんだ。疲労は知らないうちに溜まっているモノだと言うし。
  本当は今すぐに目を閉じて眠りにつきたかったが、せめて制服くらいは脱いだほうがいいかもしれない。
  こういう場合大抵、翌日になって後悔するものだ。
  身体を勢いをつけて立ち上がる。
「………っつ」
  一瞬、ズキリと頭が痛む。
  まるで眠ることに少しでも抵抗したことに対する仕打ちだとでも言うように。
  眠る直前に現れる、身体中が生暖かい何かに包まれたような心地よさを感じていた。
  その瞬間。
  ぐらり、と一瞬視界ば揺れた。
  反射的にベッドの淵に手を伸ばして、身体を支える。
  気づけばいつの間にか、身体は鉛のように重かった。
  気を抜けば意識が無くなりかける。
 溜息。
  窓のカーテンに手をかける。
  外はもう薄暗い。電灯も灯り始めた時間だ。
  きっと、気温も下がっていることだろう。
  少しでも冷たい空気に当たっていないと今すぐにでも眠ってしまいそうなのだ。
  磁石で逆側とくっ付いているカーテンを引き剥がして、一気に開けた。
  外は、思ったとおりの暗さだった。
  鍵を外して窓を開けると、冷たい風が部屋に流れ込んできた。
  少しだけ、眠気が緩和される。
  もう少しだけ外気の恩恵を受けようと、窓から身体を乗り出す。
 窓下には細い道路。
  そして、目の前には街灯。
  街灯はやはりもう灯っていて、その灯りには蟲達が群がっていた。
  蟲は光を求めて、その薄い羽を広げて街灯の光の中心部へと向かう。本能が先立った全力の突進。しかし、蟲達の思惑とは裏腹にその身体は街灯のプラスチックのカバーで妨げられる。
  硬い甲殻とカバーが衝突して、音がする。
  カバーに弾き飛ばされる蟲。
  それでも知恵のない蟲は愚直に同じ行動を繰り返す。
  突進、衝突、音、突進、衝突、音、突進、衝突、音。
  蟲の身体は徐々に焼き殺されていく。
  そんなことにも、気づかない。
  気づけない。
  それから、何度かまた行動を繰り返し、蟲は絶命した。
  蟲の身体は落下し、あっけなく街灯の灯りから遠ざかる。
  地面にポトリと落ちる。
  まるでスポットライトのようにその周辺が街灯から届く淡い光で照らされている。
  良く見ると、その蟲が落ちた周辺には先に絶命した蟲達が無数に転がっていた。
  何かに良く似ている気がした。
  しかし、その瞬間忘れかけていた眠気が再び猛威を振るい始めたため思考は中断する。
  窓を閉める。
  そして、何気なく一瞬だけ街灯下に視線を移した。
 
  瞬間。
  誰かと、目が合った。
 
「え?」
 もう一度視線を戻して確認する。
  だが、そこにはもう何の影もなかった。
「あれ……?」
  その街灯の下には、唯々蟲の死体が散乱していただけだった。
  何も変わらない。
  諦めて、カーテンを閉める。
  それからまた強烈な眠気が襲ってくる前にと思い、急いで着替えをすませた。
  ベッドに倒れこむ。
  さっきのは誰だったのだろう。
  別に道路に人がいるのはそんなに珍しいことじゃない。それにもしかしたら、この辺の地理に詳しくない人できょろきょろとしていたら僕と目が合った、それだけかも知れない。
  でも、何故かそうは思えなかった。
  確証は無いが、あの眼。あれは、完全に「僕を観て」いた気がする。
  自意識過剰と言われればそれまでだが。
  ……それに、
  僕はアレが誰か知っている。
  暗くてシルエットしか見えなかったが、どうしてかそんな気がしていた。
  ………。
  だから、どうしたのだと言うのだろう。
  意味なんてないのかも知れない。
  …思考がまとまらない。
  瞼が重い。
  もう眠気に逆らう理由も無かった。
  眼を瞑る。
  暗闇の渦。
  その中に落ちていくようなイメージ。
  ぐるぐる。ぐるぐる。
  身体から感覚が無くなっていく。
  浮いているようだ。
  堕ちる。
  堕ちる。
  底は?
  僕の身体は、いつの間にか眠りについていた。
  そして、翌日の朝。
  オフィリアさんが、いなくなった。
 
 




10.『はじまり』 

 
  朝になってもいつもの様に僕の部屋にやってこないので、なんとなく気になって部屋まで見に行ってみたのだ。
  身体は昨夜の眠気を引きずって多少重かったが、今日はどうせ学校にも行かなくてはならないので、慣らし運転さながらに少し歩いたほうが良いだろうと判断した。
  ノックをしても返事が無かったので、ドアノブに手をかけると、ドアはあっさりと開いた。
  鍵をかけ忘れて眠ったのだろうか?
  無用心だな、なんて思いながら部屋の中に静々と声をかける。なんとなく眠っている女性の部屋に入るのは後ろめたい気がしたのだ。
  返事はない。
  思い切ってもう少しだけドアを開いて、顔だけ入れて覗き込んでみた。
  部屋は薄暗い。
  もう一度呼んでみたが、やはり返事はなかった。
  玄関口にある電気スイッチに手を伸ばす。構造は僕の部屋と同じなので、部屋の勝手は判っている。
  ドアから入らずに手を伸ばそうと試みたが、少し遠かった。
  仕方ないので身体を半歩分だけドアから部屋の中に滑り込ませる。
  玄関口に足を入れたとき、何か踏んだ気がした。
  硬い。
  オフィリアさんの靴かもしれない。
  まずい、お気に入りの靴だったら間違いなく怒られるだろう。
  電気をつけて確認したほうが良いかと思ったが、電気をつけた拍子に起きてこられたらまずい。
  仕方ないので、ポケットから携帯電話を取り出して開いた。
  ディスプレイを地面に向ける。淡い光が照らし出された。
  踏んづけた何かの方向にディスプレイを向ける。
  踏んだものは、靴ではなかった。
  それは。
  人間の、指。だった。
  僕は悲鳴をあげそうに鳴る。が、それを無理やり押し殺した。
 もし殺人か何かだったのならば、「犯人」がまだ近くにいるかも知れない。という発想が頭の中に浮かんだからだ。
  口元に手を持ってくる。吐き気がした。
  そう言えば、先程から部屋内から異臭が漂っている。
  アレと関連付けると、その異臭の元を想像するのは容易だった。
  ふと、思い出して電気スイッチに手を伸ばす。
  電気が付く。
  視界が開けて、部屋の様子が見える。
 
  部屋の中は正に、惨劇だった。
 
  ガラス窓は破られ、淡い赤色のカーテンは引き千切られ、彼女のお気に入りのカップはひび割れて床に転がっていた。
  部屋の中心にあったテーブルは邪魔だとでも言われんばかりに部屋の端に弾き飛ばされ、ベッドは半分辺りをへし折られてL字型にひしゃげていた。
  壁には飛び散った血液が凝固し張り付き、吹き飛ばされた肉片がそちらこちらに散らばっていた。
 僕が踏んだ指もその一つなのだろう。
 僕は慌てて、オフィリアさんの姿を探したが、彼女はどこにもいなかった。一瞬だけ最悪の想像をしたが、散乱した死体は体つきを一見した限り男性のものだと判断した。
  そして安堵の溜息を吐く。
  そんな自分に嫌悪を抱いた。
  それから、思い出したように手に握っていたままの携帯電話を思い出し、警察に電話をした。
 

11.『軋み1』
 
 
「――それで? 君は下であれほどのことが起こっていたのに何も気がつかなかった。そういうわけ?」
 もうこの質問が何度目か数えるのも飽きた。
「はい」
「ガラス一枚まるまる割れていたんだよ。君も見ただろう? どのくらいの音がしたかくらい想像できるよね?」
「はい」
「で、気がつかなかったと」
「……はい」
 このやり取りも、数分前にしたばかりである。
  テーブルを挟んで反対側に座る刑事が、溜息を付いた。
「……ったく。じゃあ、もういいよ。帰って」
 取調室の暗い色のドアが開けられる。
「失礼します」
 僕は、最後にそれだけ言って、わき目も振らずに入り口まで向かった。いや、今は出口だろうか。
 ようやっと警察署から開放され、家路に迎えると思った間際。一息つこうと警察署の目の前にあった自動販売機に硬貨を入れた瞬間だっただろうか。警察の人間らしき男が、こちらに向かって歩いてきていた。
  視線を左右にきょろきょろ動かし、不意に僕の所で視線が止まる。
  若い男だった。
  数分前まで数時間顔を突き合わせていた恰幅の良い警察とは違う人物である。
  先程僕に事情聴取をしていた警察の部下か何かだろうか?
  なんとなく、彼の経緯を想像した。
  恰幅の良い警察から、話を聞いたのは良いが結局僕の話に納得がいかず、それで家まで送るという名目で付いて行って話を聞け。と、恐らくこんなことを言われ、慌てて僕を追ってきた。
 ―――と。まぁ、そんなところだろうか。
  先程買った缶コーヒーを口に運ぶ。
 僕は男の存在を確認しながらも、無視を決め込むことにしていつもの歩幅で家路に付き始めた。
  だが、男は僕の態度を気に止めた様子もなく、話しかけてきた。
「…ちょっと、君。待って」男は僕の斜め前辺りに位置付けながら話しかけて来る。僕の目を見、僕の進行方向に手を大きく広げている。「止まれ」という意味だろう。「危ないから送るよ」
 …予想通りである。
  当然、無視を決め込んで僕は歩き続ける。
「それにしても……」男は話し始める。「君もあの現場を見たわけだから、どのくらい大きな事件になるかくらい判るよね?」
 君の能力は理解している。だからこそ君ならこの事件に協力した方が良いってくらい判るよね。警察にとっても、君にとっても。訳すと大体感じだろうか。初歩的な話術である。
「はい」
「なら、本当のことを教えてくれないかな」
「本当のことはもうお話したはずですけど」
 わざとそっけなく返答を返す。
「ふうん」
  男は更に僕の前に出る。
  確かに、僕の証言は一般的にはおかしい。けれど本当に気づかなかったんだからしょうがないではないか。というか、どうして僕にだけこんなにしつこく付きまとうのだ。他の住民はアパート内で全て済んだというのに。
「はぁ…」僕はわざとらしく溜息をつき、言った。「警察は僕を疑っているんですか?」
「うん、まぁ。有り体に言うとそうだね」
 男は悪びれることなく、はっきりと言った。
  言いやがった。
「あ、そうですか…」
 内心いらっとしたが、表情には出さない。
「それで、どうなんだよ」
 本音を言った途端に高圧的になる。典型的な下っ端のパターンである。
「別にどうも」
「おいおい」男は胸ポケットから煙草を取り出す。「それじゃあ、ダメなんだよ」
 煙草を口にくわえて火をつけ、それから長い煙を吐き出した。
  もう僕の前に手は広げられていない。逃げることはないと判断されたのだろう。
「……」
 こういう判断のされ方をされたら、もう暖簾に腕押し作戦ではかわしきれないだろう。
 仕方がない。踏み込んでみるとするか。
  ……僕も、情報が欲しいと思っていたところだったし。
「なんだ、黙っちまって。言っとくが黙秘権とか言い出しても無駄だぞ?」
「そんなこと言うつもりはありません、けど」言葉を慎重に選んだ。立場的にも優位で、更にそれを認識して高圧的になっている相手に反抗的な態度を見せても逆効果なだけだからである。「どうして僕だけ、こんなに疑われているんでしょうか…。あ、判ってはいるんです。自分の証言が曖昧だからということが理由なのは。でも…、本当なんです」
 自分で言っていて思わず笑いそうになる。しかし、これも情報を得るためだ。仕方がない。
  僕だって、オフィリアさんと話をしたかった。
 

12.『軋み2』


 それにしても…。下手に出すぎたかな。
  と自分でも思ったが、どうやら、この男にはこれくらいで丁度良かったようだった。
 男は、煙を噴き上げると、見下すような態度で話し始める。
「あんたさ、容疑者の女と仲良かったんだろ? 聞いたぜ」更に煙を吐き出して続ける。「庇ってんじゃねぇかと疑う理由なんざそれだけで充分なんだよ」
 予想内の返答だった。多分、僕らの朝の騒動を耳にしていたアパートの住人から聞いたんだろう。だとしたら、僕の隣に住んでいる人だろうか。
「…ええ、確かに。僕とオフィリアさんは仲が良かったのは認めます。しかし、僕は本当に昨夜は眠っていて何も判らなかったんですよ」先程から何度も言っている台詞を言って、そこを強調した。「信じてはもらえないでしょうか?」
 男は正面から僕の表情を見た。観察されている。
 僕も足を止め、彼の眼を初めて正面から見る。
「……ふん」男は僕から視線を逸らし、言葉を続けた。「信じるもなにも。他の住人もそう証言しているんだ。信じるしかねぇだろうが」
 喰い付いた、か?
  それにしても。今、なんて言った?
「他の住人、も……?」今度は驚きを隠しきれなかった。「どういうことです?」
 男は、丁度差し掛かった公園の中へと入り、真っ直ぐと小屋へと向かった。なんだか彼の後を着いて行っている様で面白くないが、仕方ないので付いていく。
「どうもこうも言葉の通りだよ。全員がそう証言しているんだよ」男は、近くにあったベンチに座った。隣を叩いている。座れ。というジェスチャだろう。
 だが、それを無視して僕はその場に立ち続けた。
 男は一度舌打ちをして、話を続ける。僕は気にも留めない。
「眠っていて、気が付きませんでした。全員が全員口を揃えてこればっかり言いやがる」
「全員が……。ですか?」
「ちなみに、…聞くが。お前何時くらいだった?」
 眠気が来た時間、という意味だろう。
 これも先程取り調べ室で聞かれたことだったのでスムーズに答える。
「時計を数時間見ていなかったので判りませんが、街灯が丁度点いたくらいの時間だったので、まだ早い時間だったと思います」
「ちっ…」男は溜息をつく。「同じだよ」
「時間も同じ、なんですか?」
「…そうだ。お前本当に何も知らないみたいだな」男は大げさに肩を竦める。「ムダ足だったか」
「……」
 一度諦める振りをして、油断を誘う。これも話術の基本だ。まだ気を抜くべきではない。
  それに、僕はまだ何も聞き出せてはいないのだ。
  もう少し、踏み込んでみるべきか。
「……でも、他の住民も僕と同じ状況でありながらどうして、僕だけこんなに警戒されているんですか?」
「答える義務はない」
「…いえ。僕の時間をここまで拘束しているんだ、答える義務はあるはずです」
「………」男は僕の言葉に反応せず、煙草を吸い続けている。何の情報も得られないと判断して僕から興味を失ったのかもしれない。煙草を吸い終わった直後に帰るとでも言いかねなかった。
 しかし…。今の僕には、彼を引き止めることのできる証言も証拠も、何もなかった。
 煙草を吸い終わり、男は立ち上がった。
「ちょっと待っ……!」僕は慌てて声を出した。
 しかし、そんな僕とは対照的に男は涼しげに僕の方を振り返り、言った。
「まぁ、どちらにしろお前の部屋を調べてこいって言われてるからお前の部屋までは行かなきゃなんねぇんだけどな」
「えっ……?」表面はびくりとした態度を見せたが、内心はほっとしていた。「令状も出ていないのに、そんなこと…」
「良くないさ。でも…、こっちも切羽詰まってんだよ」男は頭を掻き毟る。「…普通じゃねぇんだよ」
 僕は、男が言った言葉を聞き逃さなかった。
  …普通じゃない。普通じゃない?
 どういうことだ?
「普通じゃない、ですか?」僕は追撃する。
 男は、一瞬しまったという感情を表情に出したが、すぐにかき消した。
「聞かなかったことにしろ」
「できません」
 男はそのまま先程向かっていた方向に歩き出した。僕も思わず後を追う。
  沈黙。
  男は微塵も迷わずに歩き続ける。
  ……僕の家の場所を知っている? あぁ、そうか。事件の場所もアパートなのだからそのくらいは把握している、か。
「あれ……?」
「なんだ?」
「いえ、別に」いつの間にか声が出ていたようだ。
 気をつけよう。
 それにしても…。それならば、何故僕にわざわざ付いて来るような真似をしたのだろうか。
  一般市民の家を令状もなく捜索するなんて、警察の行為を逸脱した行為をやるのだから、むしろ僕のいない時の方が良いのではないのだろうか?
  あの取締りの時の男ならば、その選択を選ぶような気がするのだが。取調べの時も結構えげつなかったし。とても一般市民を相手にしているとは思えない態度だった。
  その時、僕の頭の中に一つの可能性が思い浮かんだ。
  ……まさか。いや、確かめてみるか?
「あの、すみません」
「なんだ」男は僕の方を振り返りもせずに答える。
「貴方が本当に警察の人か確かめさせてもらえませんか?」
「…今更か?」
 今更だよなぁ。
「はい。お願いします」
 男は一度舌打ちを鳴らし、スーツの内側に手を突っ込んで一冊の手帳を出した。
「…ほら。これで納得したかよ?」
 男は手帳を開いてみせる。が、僕は手帳そのものではなく、その中身。彼の階級が知りたかったのだ。
「刑事……」
「あぁ。一応さっきお前の取調べしてたやつの上司にあたるな。…もしかしてお前、俺が下っ端だとでも思ってたか?」
 図星だった。
「えぇ、まぁ…」
「はっきり言いやが…」
 その時、やけに甲高い電子音が鳴り響いた。
「と、電話か?」男は、ポケットに手を突っ込み携帯電話を取り出し耳に当てた。「はい。峰岸……、ん?」
 電話口から聞こえる声に、峰岸と名乗った男の顔が僅かに歪む。
「…あぁ!? おいおい、そりゃどういうことだよ? てめぇ馬鹿かふざけんなよ!」峰岸刑事の怒声が、昼の閑静な住宅街に響き渡る。電話の相手は恐らく部下だろう。先程の男だろうか。
 僕はとりあえず黙っていることにした。
「ち。もういい、俺が直接確認する」そういって、峰岸刑事は電話を切る。が、それと同時に慣れた手つきで電話番号を打ち、再び耳に当てた。「もしもし、峰岸です」口調から察するに、今度は上部の人間に電話をかけた様だった。「どういうことですか、捜査を中断しろってのは?」
「え……?」僕は思わず話しかけそうになった。が、それをなんとか押しとどめる。
 …捜査を、中断する?
「あんだけの大事件ですよ!? 在りえないでしょう? え……、ちょ、ちょっと! もしもし、もしもし!?」男は諦めた様子で電話を耳から話して、溜息をついた。「マジかよ……」
「……どうしたんですか?」
「お前と自宅デートはなくなった」峰岸刑事はまた頭を掻いた。「ち…。なに考えてんだ上は…」
「え…? なんでですか?」
「さぁな。俺も知らない。…ただ」
「ただ?」
「この事件については、もう忘れろ」男は再び煙草を取り出し、火をつけた。「もう手は出すな。だとよ」
「なっ……!?」これには、正直に驚いた。「どういうことです!?」
 僕は焦り始めていた。
  彼に、否、警察にここで手を引かれたら、正直僕一人ではオフィリアさんの行方を捜すことはできないだろう。気力があっても、手がかりが無くては現実には無理なのだ。
  だとしたら、僕は。二度と彼女に会えない?
  僕は強く歯を噛み締めていた。
「そんなこと……!」
「お前に言われるまでも無く、俺も納得いかねぇんだよ!!」峰岸刑事は突如、僕に向かって強い剣幕で怒鳴った。
 僕は、その迫力にたじろぐ。
 峰岸刑事は再び舌を打った。
「くそ……。まぁ、そういうわけだ」そう言って、彼は踵を返し、いらただしげに歩き始めた。「俺は帰る。お前もさっさと帰れ」
「ちょっと待ってください!」
 住宅街に、僕の叫びが響く。
「……じゃあな」
 そう言って、男は紅く染まり始めた道の向こう側に消えていった。
  それは、最初の時とは対照的な、落胆した様子に見えた。


13.『訪れ』


 僕も何時までも一人で突っ立っている訳にも行かないので、仕方なく帰ってきた。
  アパートが見えた。その半分は堕ちてきた太陽によって紅く染められている。細い道の街灯はまだ付いていない。
「結局、収穫なし。か」
  アパートの階段の前に着く。僕の部屋は二階にあるので、出入りのたびにわざわざ階段を昇るのが面倒と言えば面倒だった。
  階段の前から、オフィリアさんの部屋のドアが見える。
 まだ出入りは禁止になっているようで、警察が張ったのであろう黄色いテープがその周りには張り巡らされていた。
「どこに、…行ったんだよ」
 いつの間にか僕は、強く歯を噛みあわせていた。
  あまりにも強くしすぎたのか、瞬間的な痛みが走る。
「くそ…」
  それにしても。
  どうして僕はこんなに彼女に執着しているのだろう?
 僕は溜息を付きながらアパートの階段を昇る。
 妙に乾いた音が響く。
  毎朝、僕の部屋に許可も無く入ってきて。
  そうだ。そういえば勝手に僕の部屋の合鍵も作っていたっけ。
  人の食料を悪ぶれも無く食い尽くして。
  それで、勝手に自分専用の食器とかいつの間にか持ち込んだりなんかして…。
  思わず、乾いた笑いが唇から漏れる。
  階段を昇り切って、二階の廊下に出る。僕の部屋のドアが見えた。
  …そう。それで、僕は言ったんだ。ったく、洗ってるの誰だと思ってるんだよ…。って。
  そうしたら、オフィリアさんはいつも通りに、にひひと悪戯っぽく笑って。いいじゃん、いいじゃん。今度はあたしが手料理ごちそうしてあげるからさ…。なんて言ってたんだっけな。
  こないだの煮物だって、貰い物だったんだっけ…。
  結局、一度も作ってもらえなかったな。
  その前に、いつの間にか一人で勝手に消えてしまって。
  人の都合も考えずに。
  人の心の中に、勝手に入ってきて。勝手に出て行って。
  本当に…。
  本当に…。
 溜息。
  ポケットの中から部屋の鍵を取り出して、鍵穴に差し込んで解除の方向に手首を捻る。
  だが、鍵はその場所から回らない。僅かな金属音を出して、その場で止まっていた。
 あれ…? どういう、ことだ?
  つまり。
「空いてる……? なん、で」
 脳裏に、一瞬だけある可能性が過ぎる。
 鼓動が早くなる。
  確かに、朝僕は鍵をかけた、はず。何度もドアノブを回して確かめた。それは間違いない。
  ここは二階だ。窓から入ることはできない。
  つまり、ドアからまっすぐ入ったことになる。しかし、鍵はかけていた。
 僕以外に、鍵を持つ人物。
「まさか」
 ドアを勢いよく開ける。
「オフィリアさんっ!?」
 静寂の中に、ドアが勢いよく開け放たれた音が響く。
  紅い陽射しが窓から差し込む部屋の中。彼女は、勝手に僕の部屋に置いていった自分専用の湯のみを、口元に当てていた。
 そっと、口元から湯のみを離す。
  そして、僕の眼を見据えて、こう言った。
 
「よう、カスミ。…ちょっとだけ、ひさしぶり」

 彼女は、にひひと。悪びれなく、屈託無く、笑った。
  僕は足元から崩れるように、その場に座り込んだ。
「な……」
 あまりにも、突然すぎて。
  あまりにも、彼女が勝手過ぎて。
  あまりにも、嬉しすぎて。
 

 14.「暗くシズム」


「オフィリアさん、貴女は……」体勢を直す気力もどことなく萎え、座り込んだまま僕は言う。「今まで、どこに行っていたんですか!?」
「……」彼女は答えない。
「いきなり消えて…、勝手に僕の気持ちをかき回すみたいに…」
 なんとなく静かになるのが恐くて、思いついた単語をそのまま口に出す。
  頭が回らない。
  必死に会話の種を検索する。まず思い出したのは、あの部屋の光景だった。
「ああ、そうだ……。それに……、あの部屋。あれは……、オフィリアさんは何も関係してませんよね?」
「……」
「……オフィリアさん?」
 彼女は静かに湯のみを口に運ぶだけで、なにも語らない。
  僕の期待している言葉を、言わない。
「……どうして何も言わないんですか!?」その態度から予想される答えを頭から追い払うように怒声を放つ。「何とか、言って下さいよ……。オフィリアさん!」
 彼女の言葉を待つ。
 それから、静かに彼女は湯のみをテーブルに置いて、僕の眼を真っ直ぐに見つめた。
「カスミ」
「……あ……」
 突然話しかけられ、反応が鈍った。
「カスミには、悪いと思ってる」
「だったらどうして……」
「聞いて」彼女の瞳が光る。「……そりゃさ、あたしもできれば今までみたいに過ごしていければいいな、っては思ってたよ。カスミのこと構ってさ、そんでカスミが怒って……。そんな毎日」
 彼女は視線を窓の外に逸らす。窓には、大きな月が映っていた。
「でもね、もう無理なんだよ」
 ポツリと彼女は呟くように言う。
 何が、無理なのか。
「……そんなの。あの部屋は貴女のしたことじゃないんでしょう? 犯人はオフィリアさんじゃないんでしょう!?」
「……同じような、もんさ」
 返ってきた言葉は、予想していなかった…。否、予想することをどこか拒否していた言葉だった。
「嘘だ! そんなの、嘘に決まっている!!」
「お前もあたしの部屋見たんだろ? だったら判るだろ、これが現実なんだよ……」
 オフィリアさんは、薄くふっと笑う。
「……冗談だって……、言ってくださいよ」
「そう言えば、お前は納得できるのか? ……それは、やっぱり。違うよな」
「だったら、どうしてここに戻ってきたんですか」答えを聞くのが恐い癖に、聞いてしまう。
 答えなんて、もうわかっているのに。
「お前に、何も言ってこなかったから……。それだけが気がかりだった」それから、彼女は言った。「だから、これが本当に最後」
「……う……」こんな時だけ、予想した言葉。「そんな言葉……。僕は信じない」
 僕はうずくまり、頭を両手で包み込むような格好になる。
「信じない!!」
  もう、何も見たくない。
  聞きたくない。
  信じたくない。
 頭が何かに塗りつぶされるような感触。
  もしかしたら、気づかないだけで半狂乱のような状態になっているかもしれない。叫んでいるかもしれない。何かを壊しているのかもしれない。
  それすら、判らない。
  視界が、黒い。
  その時間がどのくらい続いたのか。
  一瞬か、それとも一時間か。
  殻に、篭りたかった。
「カスミ」
「え……?」
 突如、僕の頭上に気配がした。
  それから、ふわりと、何かに包まれるような感触。
  温かい。
  優しい、香り。
  驚いて顔を上げる。
  そこには、優しく微笑む彼女の顔があった。
「ごめんな……」彼女は僕を包みながら、頭を撫でる。そして、決心したように言った。「でも、もう行かなくちゃならないんだ」
「……っ、どうして……」
 何かを言おうとすると、声が詰まってうまく発音できない。
  もう、頭では理解できていた。もう、何を言おうと彼女は行くのだろうと。
  でも、それでも。彼女を留めさせるための言葉を頭の中で次々に思い浮かべる。
  だがそれは、思い浮かべるだけで、言葉にする前に霧散して消えていった。
「オフィリアさん……、オフィリアさん…!」
 だから、脳裏に張り付いて離れない、彼女の名前だけを連呼する。
「もういいよ。カスミは、あたしのことはもう忘れていいから」
「そんなこと。できるわけが……ない……」
 彼女の胸に顔を埋めて、涙を拭うことも無く言う。
  それを優しい表情で見つめるオフィリアさんだったが、次の瞬間何かに気づいたようにはっと顔を上げた。
「嬉しいけど、もう時間みたいだ」
「え……」
 僕は、顔を上げて彼女の瞳を見る。
  透き通った、綺麗な瞳だった。
  彼女は最後に僕の額に軽くキスをし、立ち上がる。
  そのまま僕の横を通り過ぎ、僅かな金属音。ドアを開けた音だろうか。
  空気が入り込んだのか、背中に冷たさを感じた。
  振り返ることができない。
  視界が、歪む。
  そして、
「さよなら」
 最後にその言葉を残して、部屋には僕と静寂だけが残された。
 

15.「孤独」


 どのくらいその場にそうしていただろうか。
  時間の感覚は麻痺し、体を支える足も、膝も、もはや接触しているはずの地面の感触を感じてはいない。
  何もかもが凍り付いている。
  寒くもないし、暗くも無い。
  ただ、耳の周りに纏わりついている静寂に残る高音質のノイズだけが聞こえるだけだ。
  それだけ。
  焦点が定まらず、自分がどこを見ているか判らない。
  何かを見ていることを、認識できない。
  だから、目の前には何も無い。
  無とはこういうことだろうか。
  死んでしまったら、こうなるのだろうか。
  判らない。
  けれど、今の僕にはそれがそれほど怖いことであるとは思えない。
  むしろ、そこへ連れて行って、欲しかった。
  取り留めの無い思考だけが回る…。
 
  まただ。
  また消えてしまった。
  大切にしていたモノが。手の平からいとも簡単にすり抜けるように。
  水が、砂が手の平から零れ落ちるように。
  崩れ落ちた。
  僕はとても大切にしていたのに。
  とても大切にしていた誰かは、いつの間にか消える。
  どうして。
  いつもそうだ。
  僕は、いつの間にかに何かを失くしている。
  どれだけ自分が大事にしていても、何の前触れもなく消える。
  自分のあずかり知らぬ処で世界は回る。
  僕とは違う場所で、回っている。
  そして、それを知る時はいつも結果だけ。
  あぁ、そんなことが起きていたのか。
  そうやって、僕は結果として知るだけだ。
  真実かどうかすら判らない。
  判ろうとしない。
  怖かったから。
  だから、ずっと見ない振りをしていた。
  真実から目を背けて。
「僕は、知ることが出来なかった。だから、僕のせいじゃない」
 また、言い訳を綴る。
「しょうがなかったんだ」、と。

 この世に、全ての世界に関与できる人などいない。
  しかし、全ての世界に関与していない人もまた、いない。
  世界というのは、この場合地球とか宇宙とかそういったものじゃない。
  関係という意味。
  全ての事象は、すべからずして何かとの関係を持っている。
  その関係の繋がりが、一つの世界。
  生きている限り、関係の世界はある。
  それが生きるということ。
  しかし、その関係の世界は両者が向き合うことで始めて成立するものだ。
  片方が片方を見ていても、片方が背中を向けていては、繋がらない。
  僕は、ずっと背中を向けてきた。
  自分の力が足りなかったことを否定するために、ずっと誤魔化してきた。
  言い訳を自分の中で正当化し、逃げてきた。
  だから消えた。
  今更僕が振り向こうとも、関係は繋がらない。
  彼女はもう、いないから。
  あの時僕が振り向いていれば、また違う結末があったかもしれない。
  そう思うと歯痒くて、悔しくて、自分自身を否定したくなった。
  だから誤魔化してきた。
  そして、普通の世界に溶け込んで辛うじて生き長らえてきたのだ。
  これまで。
  そして、これからも?
  僕は、また同じ痛みを味わうのだろうか。
  大切なものを、失う痛みを。
  そしてまた、誤魔化して生きていくのだろうか。
  ………。
 
  できない。
  もう、あんな思いはしたくない。
  死んだように生きていたくは無い。
  だから僕は。
  額には、彼女の温かさがまだ残っている。
  オフィリアさん。
  貴女がどういった世界に生きているのかは判らない。
  でも貴女はまだそこに存る。
  もしあのまま消えてしまえば、それまでだったのだろう。
  だけど貴女は戻ってきた。
  僕の元へ。
 貴女の温かさは、まだ残っている。
  双方はまだ向かい合っている。
  だから世界は切れていない。
  そのことに僕は気づいてしまった。
  もう、逃げることは許されない。
  許さない。
  言い訳は、もうよそう。
 
  感覚が、戻ってくる。
  焦点が合う。僕の部屋が見える。
  テーブルの上にはまだ湯気を立てている湯のみが置かれている。
  時計は暗くて見えないが、湯のみから判断するに時間はそれほど経っていないようだ。
  立ち上がる。
  同じ姿勢でずっといたからか、少々の痺れを感じた。
  足を叩いて黙らせる。
  そして、振り返る。
  そこには、彼女が先程閉めたドアが在った。
  すぐに追いかけようとしなかった自分に腹が立ったが、今そんなことを考えても仕方が無いと、頭の中を切り替える。
  ふと、頬に違和感を感じた。
  いつの間にか涙を流していたのだろうか。頬に手をやると乾いた涙の後がぱらぱらと落ちた。
  拭い去る。
  自分の足元を見た。
  靴は履いたままだった。余計なことをしなくて良い。
  一歩進む。
  ドアノブを握ってドアを押した。
  夜の空気が流れ込んでくる。
  少し肌寒いが、気になどはしない。
  行こう。
  行かなくては、ならない。
  貴女との世界は、まだ終わらせはしない。
 

16.「疾走」

 
  住宅街を網目の様に疾る狭い路地。
  気づけば、僕は走っていた。
  もうこれでいくつめだろうか。
  目の前に十字路が迫る。
  辿りつき左右を早々に確認して誰もいないことを確認すると、また走り出す。
  息はとっくに切れていて、肺も痛かった。
  でも、そんなことは全く気にならなかった。
  それよりも、失くしたことで現れる痛みの方が怖かったから。
  街灯の灯りを頼りに走る。
  この辺りは夜中には人はほとんど、否全くと言ったほどいなくなる。それが今はとてもありがたい。
  暗闇の中で聞こえるのは、僕の荒い呼吸の音と規則的に聞こえる足音だけ。
  道が右に逸れる。
  曲がった矢先に、次の十字路に差し掛かった。
  左右を確認する。
  誰もいない。
  走る。
  走りながら空を見ると、ぽつぽつと星が輝いていた。
  雲は無い。
  今夜は冷えるかもしれない、などと考える。
  少々薄着で出てきてしまったから少し寒そうだと思ったが、そのことを特に悔いてはいない。
  あの時は一刻も早く走り出すことが重要だったのだ。
  左へ大きくカーブする。
  そして、間も無くト型の坂道へと差し掛かった。
  右の道をちらりと見て、人影を確認する。
  誰もいない。
  そしてまた走り出そうとした。
  その時だった。
「………?」
 足音が聞こえた。
  僕は今立ち止まっている。故に僕の足音ではない。
  誰だろう。オフィリアさんかもしれない。
  僕は迷わず振り向く。
  街灯の下。
  そこには確かに人影があった。
「………っ!!」
 人影は、僕が振り向いたことに気づいて驚く。
  その瞬間。
  踵を返して駆け出した。
  その判断は、早かった。
「………え?」
 離れていく人影。
 そしてそれは僕が良く見知った人物。
  鳩村涼子だった。
  何時からいたのか。
  それよりも、どうしてこんな場所に。ここは彼女の家とはまるで別方向である。
  それに、どうして逃げるのか?
「……おい!!」
 それは単純に勘でしかないが、
  彼女は何かを知っているような気がする。
  ………。
  逃がす訳には、行かなかった。


17.「追いかけて」


「待てって、おい!!」
 一度来た道を、再び走る。
「おい!」
 閑静な住宅街の中、僕の叫び声だけが響く。
  その声に彼女が従うわけもない。
  二、三回叫んでは見たものの、体力の無駄になるだけだ。
  それを悟った僕は、黙ったまま、彼女の後姿を目指して走り回っている。
  全力疾走。
  肺が軋む。若干酸素が不足してきているのか頭も痛かった。
  もう息が途切れ途切れになっていて、今にも座り込みたい程だった。
  10メートル程先にポッポの後姿が見える。
  先程から距離は付かず離れず、と言ったところだろうか。
  どこまで走る気だろう。
  ポッポは走りながら時々後ろを振り向いたりしていた。
  その時に僕と距離が離れていると、速度を緩める。
  まるで、距離を調節しているようだ。
  息も絶え絶えに、走りながら周りの景色を見る。
  警察署への案内が右手に見えた。
  このまま進めばいずれ警察署に辿り着くようだ。
  いつの間にか、大分戻ってきてしまった。
  というより、アパートはすでに通り越していて、戻ったというより逆方向に伸びていると言うべきだろうか。
  距離に換算すると、…大体、陸上競技の長距離の類に入ってくる距離だと思う。
  頭が回らなくて、そんな計算をしている余裕はなかった。
  最初は追いついて色々と聞くことを整理したりなんかしていたが、今はもうそんな考えは霧散して、何一つ頭の中には残っていなかった。
  ただ、追いかける。と言う命題に従っているだけだった。
  走る。走る。
  彼女の後姿を確認する。彼女はまた振り向いて一瞬僕の姿を確認する。
  疲れている様子は無い。
  そろそろ、おかしいと感じ始めた。
  ポッポ。彼女は、こんなに足が速かっただろうか?
  朦朧とした頭を回す。
  思い出す。
  以前、学校で体力測定があった。
  短距離走や、長距離走の速度ももちろん計った。
  ああいうのは、後日その結果が来る。
  ポッポは、結果が渡された直後、僕に近づいてきて悔しそうにこう言ったのを覚えている。
  やっぱり男の子には敵わないか、全然記録が違うね。と。
  僕もその後に互いの記録を見合ったが、確かに僕や大地の方が遥かに速かった。
  彼女は、靴を鳴らして十字路を曲がる。
  僕もそれに続いて走り続ける。
  そう、その彼女が。
  慣らし程度ならまだしも全力疾走の僕と同等、もしくはそれ以上の速度で走り、疲れた様子も見せていない。
  そればかりか、僕に合わせて速度を調節している?
  この状況に、おかしいと思わないほうがおかしい。
  奇妙だった。
  彼女が振り向く。
  彼女はまた僕の姿を確認し、走る。
「……はぁっ…はぁ…! くそっ!」
 彼女の余裕そうな素振りに、思わず舌打ちを鳴らす。
  もう、そろそろ限界だった。
  眩暈がする。
  吐き気もした。
  頭が下がる。
  それでも彼女を追いかけなければならない。
  ポッポが、あの時間にあの場所にいたこと。
  僕に見つかるや否や逃げ出したこと。
  彼女が、なんとなくヒントを持っているような予感があった。
  もう僕にはすがる所がそこしかなかった。
  だから、どうしてもポッポを逃がす訳にはいかない。
  話を聞かなければ…。
  歯を食いしばって、気力を入れなおす。
  頭を上げて、視線を前方に戻した。
「あ……れ?」
 彼女が、消えている。
  どこへ……行った?
  僕は知らず知らずのうちに彼女を走る目的地としていたのだろう。
  目的地を失ったことで気持ちにひびが入る。
  意思とは関係なく速度が落ちてきた。
  走ることを止めた瞬間に、疲れが押し寄せてくる。
  足が震える。
  もう、立っていることすら困難だった。
  思わず、手元にあった石壁に手をついて体重を支えた。
「くそ……!」
 自分の不甲斐なさに苛立ちが募る。
  呪詛の様に同じ言葉を繰り返す。
「くそっ、くそ!!」
 空いている左手で太ももを叩いた。しかし何の効果もない。ただ忠実に痛みだけが伝わってくるだけだった。
 右手だけでは支えきれず、壁に寄りかかる。
  シャツは汗を吸い込み、接触した部分が妙に気持ち悪い。
  しかし、そんなことを気にしている余裕は無い。
  それよりも、座りたくだけはなかった。
  座ってしまったらもう立てないような気がしたのだ。
「ふぅ……。――ん?」
 ふと、背中に違和感。
  何か背中に石壁のそれとは違う形の感触を感じた。
  妙なでこぼこがある。
  例えて言えば、文字が彫られた壁のような…。
  背中を逸らせて、首だけを回して背後を見た。
「これは…」
 そこには、やはり文字が彫られた石の看板が埋め込まれていた。
  こう、書いてある。
  『藍多公園』
  それは夕方、警察署に呼び出された帰りにも寄った公園の名前だった。
  何だろう…。
  この公園とは妙な縁でもあるのだろうか。
  一度目は、少なくとも良いとは言える縁ではなかったが。二度目はどうか。
  ただの勘だ。
  だがもう頼る情報も何もなかった僕は、それに縋るしかなかった。
  吐く息が、白い。
  身体の熱が奪われて初めて気付いたが、かなり気温は低くなっているようだ。
  昨夜から家に帰っていないオフィリアさんは凍えてはいないだろうか。
  ふと、そんなことを考えた。
  空に目を移す。
  空は氷の様に透き通り、星が爛々と輝いている。
  そして、僕の真上には真珠の様に丸い月が座して在った。
  視線を前方に戻し、公園の中に移す。
  僕は、もう鈍重にしか感じられない足を引きずりながら公園へと入った。
 

18.「繋がり始める世界.1」

 
  公園の中央。
  そこで、彼女はまるで僕を待っていたかのように立っていた。
  否、待っていたのだろう。
「ポッポ……」
「霞く…っ!!」
 彼女は優しく微笑み、そして涙を流し始めた。
「……霞くん、ごめん……ごめんね……」
 そして、しきりに謝り始める。
「え……?」
 何もかもが突発的過ぎて理解が追いつかない。
「ポッポ……、どうして泣いて…」
 僕は重い足を持ち上げて、彼女に近づく。
「こないで」
「え……」
 しかし、それははっきりとした拒絶の声によって制止される。
  一体何がどうなっているのか。
  全く訳が判らなかった。
  彼女は、座り込んで尚も泣きじゃくり続ける。
  ごめんなさい。
  その声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「………」
 静かな風に、時折すすり泣く声と虫の羽音が乗って耳に届く。
  …どういうことだ? これは。
  不自然に現れて、逃げて、僕を待って。
  そして、今泣いている。
  まさか、僕が何かしたのだろうか?
  明らかに酸素の足りない頭で考えてみても、何も思い当たらない。
  じゃあ、何故…。
  いや、違う。
  僕はそれよりも聞かなければならないことがあったはずだ。
  聞かなくては。
  何よりも優先すべきはそれだろう?
  そうだ。
「……ポッポ」
  僕は、意を決して一歩彼女に歩み寄る。
  すると、彼女は顔を上げて僕を見据えた。
  僕も彼女の眼を見つめる。
  僅かな空白。
  彼女の唇は動かない。
  今度は拒否をしないようだった。
「お前、どうしてあんなところにいた?」
 多少きつい言い方になってしまった。
  けれど、気にしていられない。
  僕も余裕が無いのだ。
「あそこって、お前の家と全然方向違うだろ…。それに、時間も大分遅かった」僕は再び彼女に一歩寄った。足元の砂が鳴る。「もしかして、何か僕に用があったのか?」
 自分で聞いてそれはないなと思う。
  そうだったら、逃げる必要なんてないはずだ。
「…ポッポ。答えてくれ」
「……うん」彼女は服の袖で目元を拭い、立ち上がった。「あの……。っ、本当はちょ、っと気になることが…、あ、あったから」
 まだ泣き引きが止まらないのか、彼女の言葉は所々途切れた。
「霞くんの、家までいったんだけど…。霞くんの部屋から、お、女の人が出てきて、それでっ…」
  間違いない。
  ポッポは、見ていたんだ。
  彼女の行方を。
「鳩村っ!!」僕は、かつての呼び名で彼女を呼んで、彼女の肩を強く掴んだ。
「痛っ……!」
 彼女は痛みに顔を歪めたが、僕は気にせず話を続ける。
「見たんだな? 彼女を!」彼女は怯えて僕から逃れようと肩を揺するが、僕は逃さないよう更に力を強める。もう無我夢中だった。「どっちの方向へ行った!?」
 彼女は、口を開かない。
「答えろ!!」肩を揺さぶる。「頼むからっ……!!」
 そして、彼女は口を開いて言った。
「痛い……、痛いよっ!!」彼女は言って、僕の胸を押す。「……ごめんなさい私が悪かったからぁっ!! もう許して……」
 悲痛の表情で叫ぶポッポ。
「あ……」そこで、やっと僕は我に返る。「ご、ごめん……」
 そっと肩から手を離す。
 彼女の肩の部分には、痛々しい程に食い込んだ指の跡が残っていた。
  彼女は肩を両手で押さえて、俯く。堪えきれず口から零れた嗚咽が、僕の耳に響く。
 その姿を見て、僕の内側に激しい後悔と罪悪感が生まれていた。


19.「繋がり始める世界.2」
 

 耐え切れず、視線を外す。
 何をしているんだ、僕は……。
  歯を強く噛み締める。
 冷たい風が吹いた。
  風がまるで、僕とポッポの間に壁を作っているように感じた。
  彼女の髪が風に靡く。
  そして、彼女は口を開いた。
「……私、霞くんに言わなくちゃならないことがあるの」今度の声は引きつっていなかった。「聞いてくれる?」
「……ああ」僕に拒否する理由も権利もあるはずが無かった。「さっきは、いきなりごめん。今度は黙って聞くから……。話して、欲しい」
「うん」彼女は再び顔を上げ、肩を抱いた手を下ろした。「もう……。言っちゃうけど。私、霞くんの事が好きなの」
「……」
あまりに場に沿わない言葉と、突如の衝撃で一瞬脳がフリーズした。
それがどういう関係があるのか、と聞き返そうかと思ったが、先程の僕の言葉と行動がそれを押し留めた。
「……あんまり驚かないんだね」
「驚いてるけど……。今はごめん。答えを返す余裕が、僕には無いんだ」
 彼女は一瞬驚いた表情を見せるが、すぐに戻す。
「うん、これは今はいいよ……」
「ごめん」
「謝んないでよ、もう。まだ答えた訳じゃないんだし……」とりあえず保留って事で。彼女はそう言って、口元を緩めた。
 その笑顔で、幾分か救われた気がした。
  僕の勝手な解釈に過ぎないのだが。それでも、少しだけ楽になった。
「それでね」彼女は瞬時に真剣な表情になる。「さっきも言ったけど私、少し気になったことがあって霞くんの家まで行ったの」
「そうだ。その気になったことって……」
「それは後で説明、するよ」
「わかった」
「そしたら、女の人が霞くんの家から出てきたから、私慌てて隠れたようとしたんだけど……。彼女、随分落胆した様子で周囲が目に入ってなかったみたいで……。私のことも気付いてなかったみたいだった」
 彼女は話しながらゆっくりと歩いて、寂しそうに風に揺れていたブランコに座った。
  僕もブランコに近づき、ブランコの支え棒に背を預ける。少しだけ、足が楽になった。首を少し傾け、彼女の方を見る。
「一つ確認したいんだけど」僕は言った。
「……何?」
「その僕の家から出てきた人って、どんな人だった?」
「綺麗な人だったよ。暗くてよく判らなかったけど、アレは多分外人さんだと思う」
「そっか」
 なら、間違いなくそれはオフィリアさんだろう。
  そもそも僕の部屋に出入りする女性なんて大家かオフィリアさんぐらいのものだ。
「ごめん、続けて」僕は続きを促した。
「……それで、えっと、どこまで話したかな」
「女性がポッポに気付かず去って行ったとこまで」
「あ、そうか。うん。…それから、確かアパートから見て右の方向へ歩いて行った。あのまま真っ直ぐ行けば、こっちの方向だね」
 あのまま探し続けても見つからなかった、か。
  それならばポッポと会えたことはやはりヒントだった。
  勘もたまには当てになるのかも知れない。
「それで、最初は霞くんの彼女さんかと思ったの」
「僕の?」
「……だってそうじゃない。普通はそう考えるよ」
「そうかな……」確かにそう思われても変ではないかもしれない。
「そうだよ。それで、追いかけようかどうか迷ってたの」
「何で追いかけようって?」
 彼女は、そこで一瞬迷ったような顔をしたが、覚悟を決めていたのかすぐに話を再開した。
「あのね……。怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「うん」
「私、多分……。ちょっと……、好きになると色々調べちゃう癖があるみたいなの」
「調べちゃう癖? 僕は良く判らないけど……、相手の好きな食べ物とか趣味とか? それって普通なんじゃないの?」
「そこまでは普通だと思うけど……。私の場合は」彼女は一度溜息をつく。「相手の家とか……、その人に関係のある人とか、行動パターンとか……。そんなの一部で、本当はもっともっと。もう、相手の……、ううん。霞くんの生活全部見てたって言っても過言じゃない……と思う」
「それは……」
 ちょっと、どうなのか。
  自分の生活を全て見られているなんて気分の良いものじゃない。
  そんなことをされて嫌がるってことくらい、誰でも判るものだろう。
「ごめんね……」
 さっきから謝っていたのはこれのことだったのか。
  僕としては、多少の気味悪さが残って嫌な気分だったが。相手が嫌がることが判っても尚、止められない程大きな思いを僕に抱いてくれていたということと、はっきりと話して謝罪をしてくれてくれたことに対して評価をしたかった。
「……もうしない?」
「うん…。もう絶対しない……」
「なら、良いよ」過ぎたことは仕方が無い。
「本当にごめんね……」
「良いって。まさか僕の家の中まで見ていたわけじゃないんだろう?」
「うん、それはしてない」
 心底良かったと思った。見られていたら結構洒落にならない。
「許して、くれるかな?」
「うん……。それに、さっき僕もポッポに乱暴なことしちゃったから。それでおあいこってことで……。どうかな?」それでも僕の方が罪は重いと思うが。
「うん!」彼女はそれでやっと吹っ切れたのか、ぱっと顔を輝かせた。「……やっぱり、………優しいね」
「え?」何か言ったようだったが小さな声だったので、風で微妙に聞き取れなかった。
「ううん、なんでもない」彼女はニコリと笑って僕を見た。
「そう?」
「うん。それより、続き話すね」彼女は一息吸って再び話を始める。「それで、しばらく迷ってたら、霞くんが家から出てきて。それから何だか切羽詰った様子で走り出したから……。何だろうと思って、思わず後を付いていったの」
「なるほど、ね」
「そうしたら、霞くんに見つかって。何だか急に悪いことをしているって自覚が沸いてきちゃって……。私、逃げちゃってた……」それから、もう一度彼女はごめんなさいと呟いた。「それから後は、霞くんが知ってる通り」
「ふ……ん」
 つまり、整理すると……。
  得られた情報は、オフィリアさんがこちらへ向かったということくらいか?
  いや、……僕の家から出たあと落胆していた、とも言っていた。それは、僕と別れることを惜しんでいたということではないのか? あくまで希望的観測だが、もしそうだったなら、まだ関係は完全に切れてはいないことの肯定になる。
 それは、精神的に支えになりそうだ。
  うん。
  やっぱり、ポッポと話すことができて良かった。
「ありがとう、ポッポ。……話せて良かった」僕は彼女に礼を言う。
「そんなことないよ。私こそ、話せて良かった」
 彼女の安心した表情を見て、僕も少し表情が緩んだ。
  そして、ふと思い出した。
「あぁ。そうだ、後一つ聞きたいことがあるんだけど」
「ん……、何かな?」
「僕、結構全力で走ってたんだけど……。ポッポ、何時の間にあんなに速くなってたんだ?」
「あ……」彼女はそこで表情を暗くさせた。「それ、は……」
 何かまずいことを聞いたのだろうか?
「いや、いいんだ。話したくないことだったら……」
「ううん、大丈夫」彼女は言う。「話しておいたほうが良いかも、しれない」
「? 大事なこと?」足の速さの話で彼女がここまで真剣味を帯びる理由が良く判らない。
「……大事。元々私が霞くんの様子を観察していたのは、それが理由だったから」
「……どういう、ことだ?」
「それは……」
 彼女が話し始めようと口を開いた。
  同時。
  公園の入り口から砂を踏みにじる足音が聞こえた。
  反射的にそちらを振り返る。
「面白そうな話、してるじゃない」女の声が、こちらに向かって放たれる。
「っ!! 誰だ?」
 ピントが合う。
「アンタ……、確か」
  どこかで聞いたような声。
 彼女はもう一歩こちらに歩を進める。
 電灯がスポットライトのように女の姿を映し出す。
 綺麗にそろえられた淡い翠のボブカット。小柄な体躯。
 先日のファミレス。
 そこでポッポとぶつかり、水を被った彼女。
  僕は、その姿を確かに記憶していた。






20「邂逅」

 
 女がこちらに向かって足を進める。
  まるで、友人に向かって歩くような足取りで。
「私も、その話に混ぜてくれない?」
 こちらに向かって誘うように水平に手を伸ばす。
  その仕草は妙に優雅だった。
  今日は私服なのだろう。彼女は黄色のワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。カーディガンはピンク色だった。色使いのせいだろうか、妙に目立つ。服装などの違いもあるのだろうが、店名は思い出せないが――昨日のファミレスで見た店員のあの人とは、別人のようだ。
「どうしたの? 気にせずゆっくり続きを話しなさいな。もう走ったりはしないんでしょう?」
 彼女との距離が縮まっていく。
  なんだ、この状況は。
  彼女と顔見知りという訳でもない。
  ただ、店員と客という関係に一度なっただけ。
  それだけでここまで慣れ慣れしく話しかけてくるものだろうか?
  一瞬、ポッポとあの時以来友達にでもなったのかと思い、後ろを振り返るが、当のポッポも困惑した表情を見せている。
  それに、彼女は今なんと言っただろうか。
  面白そうな話。
  確かに、そう言った。
  先程の会話のどこが面白そうだと言うのか。
  いや、それ以前に、僕達の会話を聞いていた?
  何故? どこから?
「ほら、早く」
 彼女が水平に差し出した手を振って、会話の続きを催促する。
  何かがおかしい。
  この場面だけを見たならば、友人が二人話していたところに、一人話しに加わってきた。という日常的な風景に移るだろうが。
 しかし、彼女は、僕らが夜の街を疾走していたことを知っている。
  もしかしたら、たまたま僕が走り終わり公園に入るところを見て、僕達に話しかけてきたということもあるかもしれない。
  しかし、何故かそんなことは在り得ないと頭のどこかが警告を鳴らしている。
  こう言っては失礼かもしれないが、彼女の雰囲気が、奇妙なのだ。
  とても、友好的だという風には感じられない。
  身の危険さえ、感じた。
「なんの用、ですか?」
 彼女の歩みを制するように、彼女に問う。
「あら、酷いじゃない。私、ただ一緒に話したいなって思って来ただけなのに」
 彼女は歩みを止める。だが、それでも距離は大分近づいていた。
「それにしては、とても友好的じゃない」
 僕が言うと、彼女は、眉を潜めた。
「本当に酷いわね、どういうことよ?」
 彼女は憤慨したような様子を見せる。
  もし本当にそうだったら。そう考えて少々罪悪感が沸いたが、それは無いと自分の中で断言し、その感情を殺した。
「貴方、さっき言いましたよね? もう走ったりしないんでしょ? って」
「それがどうかしたの?」
「ということは、最低でも僕が走っていたことを知っているということだ。走り終わって公園に入って、それからどのくらい時間が経ったと思います? その間、貴方ずっと僕達の話を聞いていたんですか?」
「……」
「そんな風に人の話を盗み聞くようなことをするのが、友好的じゃないと。そう言ってるんですよ」
 そう。彼女が僕の走っている姿を見ているのならば、今登場することが不自然なのだ。
  彼女はどうしてそんなことをしたのか。
  その理由を考えると、どうしても彼女がただ単に僕達に話しかけてきたという風には思えないのだ。
  それだけで、その可能性を否定するのには弱いかもしれないが、奇妙さを感じるのには充分だと言える。
「…………」
  ふいに、彼女は頭を垂らし、
「あっははははっ、ははははははははははは!!!!!」
 そして、狂ったように笑い出した。
  僕は、ニ三歩後ずさる。ポッポもいつの間にか立ち上がっていて、僕にならって何歩か下がった。
「ははっ!! いやぁ。それだけの理由でそこまで疑われるなんて、アンタとんだ疑心暗鬼だねぇ」
 彼女は、頭を上げて、僕を見据えた。
  僕も視線を逸らさない。
  視線が絡む。
  僕を見据えたその双の瞳は、深い蒼色に変色していた。
「……瞳の、色が……変わった?」
「……え……っ!?」
 後ろに控えるポッポが、驚愕したような短い悲鳴を漏らした。
「でも、いいよアンタ。中々の回転の速さだ。その発想の突飛さも多少逸脱してる、と言えなくもないけど、悪くはないね」
 彼女は、形の良い唇を歪に歪める。
「悪くは無い。というのは、生き残る上で、という意味と私の好み、という二重の意味で言ったのよ。誤解しないでね」
 じり、と僅かに足を後ろに下げる。誤解しないでね、という意味が示すところの意味が判らなかったが、そんなことを考える必要性も余裕もなかった。
 嫌な悪寒がする。
  この目の前の女の視界から一刻も早く脱出しなければならない。確証の無い考えが目の前の女が放つ雰囲気に染められて、輪郭を鋭利にしていく。
「逃げないでよ」
 女がそう言ったと同時だった。
  女は、歪んだ唇を、更に歪ませる。否、歪ませるという表現では表しきれない。まるで、両頬に渡り裂けているようだ。それは魔女のように。
  人間が、あんな笑い方ができるものなのだろうか。
  裂けた口から見えた彼女の口内は、真っ赤に染まっている。
  その裂けた口内の上下から、尖った歯が針のように伸びる。それと同時に彼女の綺麗に整えられたボブカットの髪が、ざわりとうねりを上げる。
「あ……」
 思わず声を漏らす。
  先日のあの彼女と目の前で異様に変容するこの女は、違う。
  脳裏に、先日の彼女の姿がフラッシュバックする。
  可愛らしい制服に身を包み、愛想の良い笑顔を振りまく彼女。その胸元に付けられた彼女のネームプレート。
 そう、確か河合。河合さん。そう書かれていたことを思い出した。
「河合……さん……」
 思わず目の前で変容する女に向かって、そう呼びかけていた。その呼びかけに答えてくれないことを願って。彼女とこの女が全く別な人間であるという裏付けを付けたかった。
  もうこれ以上、自分の日常が壊れていくことが、悲しくて。
 しかし、そんな願いは、儚く簡単に壊される。
「はぁい。そうよ、私の名前、覚えててくれたのね。フルネームも教えてあげましょうか?」
 僕の呼び掛けに答える。
  同時に彼女の瞳の中の瞳孔が長細く縦に伸び、妖しく光りに濡れる。
  まるで、獣の瞳だ。
  そして、僕らはその獣に捕食される存在なのだろうか。
  彼女の体から溢れ出す死の気配を、僕は感じ取っていた。
  どうして僕らが。そんな考えが脳裏を過ぎる。
  どうして僕らがこんな状況に陥らなければならないのか。僕らが彼女に何かしたとでも言うのだろうか。いや、何もしていないはずだ。彼女と僕らの接点はあのファミレスの店員と客というだけ。それに、何かされたと言えば、彼女よりむしろポッポの方じゃないか。ポッポはあの店で彼女とぶつかり、偶然とは言えその結果水をかけられた。まさか、そんなことが理由になるとも思えないが。その時のことを逆恨みして?
 取り留めのない考えが浮かんでは消える。
  僕は完全に混乱していた。
  目の前の女――、河合さんの腰が、僅かに沈む。
  まるで兎に飛び掛る前の獅子の様に。
  彼女を取り巻く死の気配が、膨れ上がったように見えた。
  それに気圧されたのだろうか、下げようとした足が震えて動かない。
  僕は全く動けなくなっていた。
  逃げられない。
「あ、そうそう。もう流石に気付いてると思うけど、今から私、アンタ達殺すから」
 さも何でもなさそうに、そう言う彼女の笑顔に、僕は戦慄を覚える。
  背筋を、大勢の蟲が這って昇ってくるような感覚。身震いがした。
「冥途の土産に、覚えておいてね。私の名前は河合莉音。エル、アイ、オー、エヌ。アールじゃなくてエル、ね。ライオンと同じスペルよ。素敵でしょう?」彼女は楽しそうな口調で続ける。「可愛い制服のファミリーレストラン『ティラミス』の笑顔の似合う店員さん。そして」
 言うと同時に、彼女が地面から爆ぜるように僕の方へ跳躍する。
  一足跳びでは届かないくらいには、距離を取っていたつもりだった。
  甘かった。
  気付けば、彼女は僕の目の前に居た。
  互いの吐息が感じられるくらいに、接近している。僕の唇の数センチ前に彼女の赤い唇が近いている。この状況で、酷く蟲惑的にすら感じる。
  まるで、口付けをする程までに近づいて、彼女が囁く。
「『蹂躙』の莉音。ちょっと特別な、人間なの」
 足は、動かなかった。


21.「蹂躙」


 僕の頭に向かって振り下ろされる河合莉音の右腕が、やけにスローモーションに見えた。
  彼女の何かを掴むように開かれた手。その手の指先の爪は、人間のものとは思えないほど長く、鋭く、そして強固なものに思えた。
  あれが、この頭に振り下ろされたら。
  その先を想像すると、血の気が引いた。
  体中が拒否反応を示していた。しかし、肝心の足が動かない。否、足どころか体の部位の何一つ動かすことができなかった。
  しかし、それに反比例するように、頭だけが妙に冴えていた。
  冷めている、とも言える。きっと、今の光景がスローモーションなのも、実際にそうなのではなく、頭が妙に冴え切っているからなのだろう。
  だから、悟っていた。
  あぁ、死ぬんだな。
  僕はそんな風に、あっさりと自分のこれから訪れる死を静かに見つめていた。
  どんなに理不尽でも、この理不尽な死を、受け入れようとしていた。
  彼女が言っていた、「逸脱している」と。
  今まで。
  今まで普通にと思って生きてきたけれど、案外僕も普通なんかじゃなかったのかも知れない。だから、こういう風に普通じゃなく終わりを迎えるのも、また必然なのかも知れないな――。
  逸脱している。
  その評価は、あながち間違いでもないのかも知れない。
  ぼんやりと、そんなことを考える。
  彼女の異常なほどに開かれた手が、目の前に迫っていた。
  ああ。
  終わる。
  ポッポ、守れなくてごめん。
  追いつくことができなくて、ごめんなさい。オフィリアさん。
  懺悔をするように、僕は目を瞑った。
  その瞬間、腰の左側に何かに体当たりされるような感触と、左耳に空気を切り裂くような風切音を聞いた。
  身体が僅かに宙を浮く。
  それから数秒後、僕の身体は右肩から地面に着地し、一メートル程砂を引きずるような感覚と音を聞いて、それからやっと止まった。
「……え?」
 一瞬のことで、頭が理解に追いつかない。
  瞼をゆっくりと開く。
  僕が滑ったせいだろう、目の前には砂埃が舞う。しかしそれも程なくして沈着した。数メートル先に、二人の姿が見えた。
  二人の姿が横たわって見える。というよりも、世界全体が横たわって見えるのはきっと僕の状態が今地面と平行な姿勢だからだろう。
  先程まで僕が居た場所には、ポッポが居た。
  僕の地面を引きずった跡を延長すると、ポッポの足元に辿り着く。そこでやっと事態を把握することが出来た。
  ポッポが、僕を突き飛ばしてくれたのか。
  彼女は、僕の様子を一瞥した跡、膝を地面に着いた状態で、目の前の異様を睨んだ。
  対する異様は、右腕を振り下ろした状態で制止していた。完全にその右腕に託した欲望は行き所をなくしたようで、僅かにわなわなと震えている。
  河合莉音は、膝元のポッポの瞳を威嚇するように見据える。
「アンタ……、私の邪魔を、する気?」
 口調は冷静になるよう勤めている様子だが、言葉の端々が怒りに震える。
  河合莉音が、獲物を逃がした張本人のポッポに激昂しているのは、目に表れるように明らかだった。
  威圧が、こちらにまで伝わってきた。
  空気が彼女の怒りに触発されて、振動している錯覚すら感じる。
 鋭く尖った空気に、頬がぴりぴりとした違和感を訴えていた。
  その空気の渦中にいながらも、ポッポは耐えた様子で僕に向かって叫ぶ。
「……逃げて」
 視線は、目の前の獣に固定したまま。
「お願い、逃げて! 霞くん!!」
 それを合図としたかのように、河合莉音の振り下ろされたままの右手が、ポッポの頬を薙ぐように、弾いた。
  乾いた音が、夜の公園に響く。
  ポッポの身体が宙に浮く。
  否、浮くと言うよりは弾き飛ばされたというイメージ。
  その身体はまるで玩具のように飛ばされて、僕とは反対側、ブランコの前にある柵に当たって止まった。
  ポッポの腰が、柵と激突する。それからゆっくりと、彼女は柵を滑り落ちるようにして、地面に向かって崩れ落ちた。
「ポッ……ポ……。……鳩村ぁっ!!」
 鳩村涼子は、そこから起き上がる様子を見せない。指先でさえもピクリともしなかった。激突した柵だけが、音叉のように振動している。
  それを、つまらないものを見るように河合莉音は一瞥し、呟く。
「殺しちゃいないわよ。気絶しているだけ。……私の邪魔をしたコイツを! そう簡単に殺したりなんか、しないわ」
 彼女は僕に背を向けて、ポッポの方へ歩み寄る。
  その表情は伺えないが、ポッポに向けて凄まじい怒気を表していることが、なんとなく判った。
  殺される。
  ポッポが動く気配はない。
  逃げることはできない。
  ポッポが、鳩村涼子が、あの獣に、殺される。
  僕のクラスメイトの鳩村涼子が。
  僕の友達の鳩村涼子が。
  僕を、好きだと言ってくれた鳩村涼子が、殺される。
「……やめ……ろ」
 足がその恐怖に再び震え始める。
  身体が言う事を聞かない。
  立ち上がろうとしても、意思に反して足は動かない。
  獣が鳩村涼子の胸倉を軽々と、しかし乱暴に掴み上げる。それから右腕で彼女の頬を平手で打った。
  その勢いで再び涼子は飛んだ。
  意識がないからだろう。人形のように手足を投げ出して、涼子は砂上を滑るように転がる。
  なんだよ、あの力は。
  見た目だけではあんなにも、軽く打っているのに。
  いや、本人はいたって軽く打っているつもりなのだろう。それでも、殴られた方にとってはとんでもない威力。
  あの獣は、自分ではいたぶって弄んでいるつもりなのだろう。
  だが、あんなものを無防備な状態で後一発でも喰らったら。
  その想像にぞわりと、悪寒が走った。
  ……このまま、見ているしかないのか?
  彼女が嬲られる様を、僕は横たわって眺めているしかないのか?
「……くっ!」
 歯を思いきり噛み締める。
  口の端から、血が流れた。
  しかし、痛みで頭が覚醒をし始める。
  彼女が身を挺して僕を助けてくれたのに。僕は、ここで悔しがることしか出来ないのか?
  ……そんなことは。
  許せない。
  獣の方を見やると、彼女は再び整然とポッポに向かって歩き出していた。
  時間がない。
  地面に横たわったまま、辺りをきょろきょろと探す。髪が砂塗れになったが、そんなことは気にもならなかった。
  近くに転がっていた先端が尖った枝が、視界に入る。
  恐らく、どこかで折れた木の枝が風でここまで飛ばされてきたのだろう。
「う……」
  手を伸ばして、それを掴み取る。
  そして。
  自らの足に向かって、突き立てた。
「う……。うあああああぁぁっっっっ!!!」
 痛みが突き立てた一点から、全身に向かって駆け巡る。
  その痛みの奔りに便乗するように、一気に身体を立て起こす。
  足から枝を引き抜く。僅かに痛みによる呻き声が口から漏れた。栓を失ったことで、傷口から血が溢れ出す。
  その痛みによる感覚を、脳で無理やりシャットダウンする。
  勢いが続いているうちに、獣に向かって走る。
  左手には、先程自分を貫いた先端が鋭利な枝。
  自分でも驚く程に速く、射程距離内に到達する。
  それに驚きを感じている暇などない。僕は、彼女に向かって思い切り垂直に跳んだ。
  獣が僕の殺気を察知しこちらを振り返る。
  目が合う。獣の細長い瞳孔が、僕を捉えた。
  しかし、もう止まらない。
「ああああぁぁぁっっっ!!」
  そのまま獣の首元に向かって鋭利な先端を握った左手を、振るい降ろす。
 

22.「対峙1」


 振り下ろした腕先には、空虚しか残っていなかった。
  覚悟を伴って振り下ろしたにもかかわらず、何の感触もない。
  先端が喉元に達する、そう確信した刹那彼女は僕の視界から消え去っていた。
「ねぇ、なんてことしようとするのよ」
 右方から声が届く。
  弾いたようにそちらを振り向く。
  僕の数メートル先、先程鳩村涼子が激突した柵。彼女は悠然とその上に立っていた。
  彼女の顔を見上げる。彼女は、大きく膨張した月を背負って、髪を柔らかくふわりと揺らす。
 しかし僕を見つめるその瞳は、侮蔑と怒りの色に染められていた。
「そんなちっぽけな木の枝で、私をどうするつもりだったのかしら」
 彼女の凛とした声が、闇に響く。
「ねぇ?」
「……どう、して」
 驚愕による混乱で、言葉が喉に詰まる。
  それを、無理やり絞るようにして叫んだ。
「……どうしてだ。なんで、なんでそんなところに居るんだ……。お前は確かに……!」
「黙れ」
 僕の言葉を切断するように発せられたその声に、身体が一瞬硬直した。
  とても冷たい、声だった。
「今質問しているのは私でしょう? ダメよ、順番は守らなきゃ」
 それから、声の調子をころりと反転させて言葉を続ける。
「……」
「それで、そのちっちゃな小枝でどうするつもりだったの?」
 動揺していることを悟られたくなくて、すぐに言葉を返す。
「河合さん、アンタを…殺す。そのつもりだった」
  今更そんなことを知られてもどうということは無いとは思うが、僕が立ち直っているということを認識させたかった。
  標的を、僕に定めさせるために。
「く……あははは!! それで!? その老犬の足程もないその枝で! 私を殺すって!?」
 心底可笑しいと、そう言いたげに腹を抑え彼女は言う。
「面白いわ貴方。やっぱり、良い」
 それから、一変して僕を熔ける瞳で凝視する。
「そこの女を弄び終わったら、貴方をゆっくり愛でてあげるつもりだったのに。もう、そんな事言われたら……、我慢できないじゃない」
 彼女は、身震いを耐えるように両手で肩を抱いた。熱っぽく濡れた瞳。
「時には反抗するから可愛いのよね。いいわ。じゃあ……」
 そこまで言って、彼女の背負う雰囲気が変わる。
「まずは君から、愛してあげる」
 これから襲い掛かる脅威を見定めるため、乾いた瞳を瞬きで潤す。
  直後、軽く飛んだような音が聞こえたかと思うと、彼女はすでに柵の上には居なかった。
「……な……っ!」
 焦り、辺りを見渡す。
  その動作すらも、彼女にすれば酷く緩慢としたものだったらしい。
「右よ」
 瞬間、右の耳元に吐息とともに届く声。
 その言葉に反応し、咄嗟に腰を沈め、右腕を固める。
  右肩に、重い衝撃。
  そちらを振り返る暇さえも与えてもらえず、僕はあっさりと吹き飛ばされる。
「あ……ぐっ」
  今の攻撃は来ることが判っていた。つまり、足に踏ん張りをつけることが可能だったため、宙に浮かずにはすんだ。
  それでも、先程僕が立っていた場所から随分と長いシュプールが僕の足元に向かって伸びているが。
「ぐ……」
  右肩に鈍痛が走る。右腕にはもう感覚が感じられなかった。
  こうした重い痛みを思い出すと、他の箇所の痛みも甦る。左足から、先程の刺傷の鋭い痛みが走った。
  左足の腿を思い出したように見ると、その付近だけジーンズが真っ赤に染め上がっている。
  今が夜で良かった。鮮明な色を見てしまったら、戦意を削がれてしまっていただろう。
  彼女がゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。
  どうやら標的を僕に完全に変えたらしい。僕の思惑は半分成功した。後は、ポッポが気が付いてここから逃げてくれれば……。
  成功する確率はどのくらいだろう。頭の中で軽く考えてみる。
「……」
 絶望的だ。
  それでも、続けるしかない。
「アンタ、河合さんは……」
 彼女は話しかけられるとは考えていなかった様子で、きょとんとした顔で足取りを止め、こちらを見つめた。
「どうして、こんなことを……?」
 痛みからなのか緊張からなのか、呼吸を荒くしながらも僕は問いかけた。
  ポッポが目覚めた時、それを考えると、少しでもこちらに注意を引き付けておきたかった。それだけの目的で問いかけた質問だった。案外、僕はこの問いに関してはもうあまり興味は無い。理由は判らないが、こうして襲われているという事実。そしてここから脱出しなければならないという状況。それだけが僕の思考を埋め尽くしている。
「え、どうしてって……。んー」
 筈だったのだが。返ってきた答えは、予想していなかったものだった。
「そうね、最近話題になってるニュース、知ってる?」
「……は?」
 突然、酷く俗的な単語が出てきたことで、驚く。
「だから、ニュース。いつも朝とか夕方とかにやってるアレよ」
 まるで、友達と談笑しているようなそんな雰囲気で話す。
「……いや、見てない」
 緊張を途切れさせないように注意した僕の発言だったが、それもそれで間が外れた返答だったな、と言った直後自分でも思う。
「あ、そうなの?」
 見なきゃダメよ。彼女は腰に手を当て、憤慨したように続ける。何故そんなことをここで言われなければならないのか、さっぱり判らない。
「だからこんな風に訳もわからず私に殺されたりするんだから」
「……はぁ」
 どうしてこんな話になっているんだろう。
「それで、最近この辺り……っていうか、そうね。主にあっちのオフィス街の方で頻発してる惨殺死体の事件、知らない?」
「……!」
 惨殺事態。
「結構、話題になってるんだけどなぁ」
「……それなら、知ってる」
 先日のファミレスからの帰り道、大地が話していた事件。
(最近、やけに物騒な事件があってな)
 脳裏に、大地の声が回帰する。
「なぁんだ、知ってるんだ」
「でも、あれはオフィス街だけの話じゃ……」
「別に、そんなこともないよ。今まではあっちの方が深夜には引っかかりそうな人が多かったから、たまたまそうだったってだけで」
 引っかかる、目の前の女性。
(そう。だから、犯人は女なんじゃないかと、予想されてる)
 あぁ、そうか。
  一つ一つの情報の欠片が、ぴったりと合わさっていく。
(無数の殴打、刃物による斬撃、そんで…、人外の力による引き千切り。見つかった死体の死因はこんな感じだと、書いてあった)
 殴打。そう、今まさに僕が受けているものじゃないか。
  あぁ、そうか。ポッポがあんなに必死に情報を欲しがっていたのは、自分が夜外出するからだったのか。
「噂が広がりすぎちゃってさ。もうあっちで人捕まらないんだもの。仕方ないから、今日は私だけでも誰か殺しておかなくちゃと思って。ストレス溜まるのよね」
 饒舌に話す彼女の言葉の半分が、僕の耳には入ってこなかった。
 大地の言う通り、家に篭って居ればこんな被害も受けなかったのにな。
  どうしてこんな危険を冒してまで、否忘れてまで出てきてしまったのだろう。
 ……。
「……!」
 瞬間、思い出す。
  そうだった……。何を馬鹿なことを言っているんだ。僕は。
「君も、ちゃんとニュース思い出して家に居れば私とは店員さんとお客様の関係でいられたのに。不運だねぇ」
「確かに、不運だよ」
 思い出したことによって活力が身体を再び巡り始める。
  そうだ。僕は。
「だけど、僕は探さなくちゃならないんだ」
 彼女は、完全に油断していた。
  腰を沈めながら、足元の砂を左手で撫でる。
「……そう、彼女を。……オフィリアさんを!」
 高らかに、叫ぶ。
 言うと同時に走る。
  左足の痛みが麻痺から回復して痛みを脳に訴えるが、そんなことは関係無しに全力で疾走する。
  血が噴出し、地面に点々と赤い跡をつける。
「……ふぅん……」
 彼女が身構える。
  しかし、もう遅い。
  彼女は先程の僕の刺戟の例もあってか、どんなに決定的であっても避けられるという余裕があるのだろう。その身構え方は、完全に僕を見下しきっている。
  僕もそこは理解している。彼女に僕の腕は届かないだろう。
「おっそいなぁ、速くきなよー」
 彼女は、にやりと口を歪ませる。
  彼女の余裕。そこに付け入る。
  次の僕の攻撃は腕よりも何倍も速く、広範囲だ。
 しかし、それも。それでも回避されれば。もう僕に打つ手は無い。終わりだ。
  そんな絶望感でさえ、今この瞬間だけは高揚感の種になる。
「……ふっ!!」
 一呼吸とともに、彼女の顔面に向かって先端を尖らせた小枝と共に左手を水平に振るう。
「……がっかりだなぁ。全然ダメだよ、そんなんじゃさぁ!!」
  彼女はボクシングのスウェーの様に背を逸らせ、それを避ける。
  彼女はそれで僕の攻撃は終わったと思ったようだ。その体勢のまま目を一層ぎらつかせ、瞳孔を更に細く伸ばす。僕を喰らうと決めたようだ。
  だが、僕の攻撃はまだ終わりじゃない。
 

23.「対峙2」
 

彼女の逸らせた顔面の上部、そこに僕の空打った腕はまだ残っている。
  そして、その左手の手中に枝と共に握られた砂。
「え……っ!?」
 左手からぽろぽろと落ちるそれで、僕の狙いにようやく気付く河合莉音。
  しかし、もう遅い。
  それを、手の真下に在る彼女の目に向かって勢いよくぶちまけた。
「う、ああぁああああっっ!!」
 目を砂つぶてによって潰された、獣が空に浮かぶ闇に向かって断末魔のような悲鳴を上げる。
 僕は攻撃が成功したことを確認すると、それを尻目に一気に駆け出した。傷口が広がってきているらしく、どうしても左足を引きずるような走り方になってしまう。それはもう仕方ないと諦め、今出来る限りの最高速度で未だ昏倒している鳩村涼子の下まで駆ける。
 走る途中で、横たわる彼女に向かって叫ぶ。
「起きろ! 逃げるぞ、ポッポ!!」
 この声に反応して起き上がってくれたら僥倖。そんな考えで僕は叫んだ。なるべく時間は短縮できれば短縮できたほうが良い。
 ポッポの下へ辿り着く。結局時間の短縮化は叶わなかった。軽く舌を打つ。
  彼女の顔の前方辺りでしゃがみ込む。その動作だけで傷口から鋭い痛みが走ったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。肩を揺さぶって、更に声をかける。
「ポッポ! 起きろ! 頼む、起きてくれ!」
 最後のほうは懇願するような叫びになっていた。
  肩を揺さぶった時、顔が動いて地面に伏せていた側の頬が覗いた。そちら側が直視するには痛々しい程に腫れ上がっている。悔しさと怒りが心の中を染める。
  僕はどうしてこんなにも無力なんだ。
「……ん……」
  ふと、彼女の指先がピクリと動く。
「……ポッポ!」
 その一瞬の反応が、まるで乾燥した大地に降る雨の様に嬉しく感じられた。
  もう少し、もう少しだ。
  僕は懸命に彼女に言葉をかける。
  背後の気配が気になる。河合莉音はまだ目が開かないのか、苦渋を秘めた叫びを轟かせている。だが、それも一体あと何秒持つのか判らない。
  ポッポが目覚める前に、あちらの視界が回復したら、もう終わりだ。
  なんとも分の悪い賭けだったが、これが僕の考えうる最良の方法だったのだ。
「頼む……、起きてくれ」
 彼女の頬を軽く叩いて意識が覚醒に向かうよう促す。
  もし、僕が万全の状態であったなら彼女を背負ってでも走り去るという選択肢を選べたかもしれない。
 が、右肩と左足に著しい損傷を負ってしまっている状態では、それも叶わないだろう。背負ってニ、三歩歩いた後に無様に転倒するのが目に見えている。その後は当然、死しか待っていない。 
  彼女を置いて逃げれば、僕の命は助かるだろうが、ポッポは間違いなく殺されるだろう。それを知った後に僕が精神的に生きていられるかと言ったら、そこに自信はない。
  更に、ポッポが目覚めるまで河合莉音の足止めを図るのはどうか。
  無理だ。
  それを実行した結果、今の状態である。
「ポッポ……」
  彼女の頬を軽く叩き、肩を揺さぶる。もうどのくらい繰り返したか判らないが、もう背後の獣が回復するまでにポッポが起き上がることは絶望的に感じてきた。
  もうそろそろ、視界も回復するころだろう。
  先程まで空気を裂くように響いていた苦渋の声も、今ではすっかり苛立ちの声に変わっている。
「殺す、……殺す……」
 まるで、呪詛のようにその言葉を繰り返しているのが聞こえる。
  背筋が、一瞬ぞっと凍りついた。
  こんなに剥き出しの殺意は初めて味わった。背中越しでも死の香りが漂っているのが判る。
「くそ……っ!」
 それに対し僕は焦りの色を隠しきれなかった。
  最善だと判断した行動を投げ出し、彼女を抱き起こして、無理やり背負う。
「……ん……くっ……」
 思っていたよりも軽く勢いが付きすぎたか、背に一瞬だけ彼女の頬が強く当たる。
  その際に彼女の頬の傷に刺激を与えてしまったのか、彼女が昏倒しながらも苦痛の声をあげた。
「ごめん、ポッポ……。でも、もうこの方法しかないみたいだ」
 背負った彼女に向かって、声をかけた。
  背後で目元を流れ出た涙で拭う獣と、反対側の公園の出入り口とを見比べる。
 成功率を頭の中でシミュレートして、概算してみた。
  かろうじて、出口の方が距離は近い。が、速度を比較してみるとどう考えてもこちらの方が遅い。というか、出口に辿り着いたからといって、ゲームのようにそこで危険が途切れるなんて確証はどこにもない。誰も道路を通る人間がいなかったらその時点でゲームオーバー。むしろ、河合莉音が人目も憚らずに殺せるというのであれば、それもそれでアウトである。
 なんて理不尽なゲームバランスだよ。
  僕は、心の中で悪態を吐く。
 それでも、
  ポッポを生かして、貴女を探すには。
「成功させるしか、ないんだよな」
  そう呟いて、出口に向かって駆け出す。
  左足が痛む。右肩が軋みを上げる。
  がくり、と膝が折れる。バランスを失った背中のポッポが、一瞬下方への重圧を増した。
「……く……!」
  それでも、腰を下げ、両足で踏ん張り体勢を無理やり立て直す。
  足に力を入れた瞬間、傷口から更に血が外へ流れ出たのが判った。
  眩暈がする。
  血を流しすぎているのだろうか?
  今までそんな体験などしたことがないから判らない。
  それが、どうしてそんな人間。僕が、こんな状況に巻き込まれているのか。
  訳が判らない。
「う……あああああああっっ!!」
  僕は、痛みを誤魔化すために叫び声を上げながら出口へと向かう。
  この叫び声には、公園付近の住民に届き、その住民が警察でも呼んでくれる事を祈って、という希望も含まれている。が、先程から大声で咆哮を上げている河合莉音のことを考えれば、そんな希望もすでに絶望的だ。
  やけにも似た声で、溜息を吐き出す。
  そして、再び出口に向かって走る。
「……っ……」
  訳が判らないけれど。
  もしかしたら、当たり前なものが壊れることなんて、割とあっさりとやってくるのかもしれないな。
  あの時も、そうだった。
  ぼんやりとした頭でそんなことを考える。しかし、足は速く出口へと向け動かす。
  いけるか?
  そう考えた瞬間だったか。
  逃げる傍ら、背後から砂を踏み締める音が聞こえた。
「逃げるなって言ってるでしょうがああああっっ!!」
 その言葉の直後に、地面を激しく蹴る音。
  背後を見る。
  最早そこに人影はなかった。
  ふと、地面の砂に移る影が目に入る。
  月の光を遮るように、跳躍する人影。
  慌てて、上空に目を移す。
  そこには満月のように丸く爛々と輝く蒼の双眸と、三日月のように裂けた真っ赤な口をした河合莉音が居た。
  笑っているような形相だが、僕にはそれが、怒りとしか著すことができなかった。
  僕は、驚愕で目を見開く。
「これで終わりよ! あっはははは!!」
 甲高く狂ったように嘲笑しながら落下する彼女。
  重力に引かれ勢いを増し、人間を真っ二つにするには充分過ぎる程の圧力と速度を伴って、彼女の右腕は僕の頭上に再び振り下ろされた。


24.「slowly moment」


 瞬きさえも許されない一瞬。
  大気を切り裂いて、振り下ろされた彼女の断頭の獣爪。
  そんな危機的状況の中で、ぼんやりと考える。
  ――今度こそ、避けることは不可能だ。と。
  まるで、自分の身体が自分のものじゃないような錯覚に陥る。
  ふわふわと浮いているような感覚。
  現実味がないせいだろうか。
  それとも、完全なる死を悟った瞬間に一足早く魂が身体から離れてしまったからなのか。
  諦めてた訳じゃない。
  逃げ切る可能性がほんの一割でも残されているならば、僕はどんな危険を負ってでもそれを選択するだろう。
  だが、そんな可能性すらなかった。
  自分自身の力でこの死から逃れることは、もう不可能だ。
「死んじゃえーーーーー!!」
 目の前で叫ばれているはずなのに、声がやけに遠く聞こえる。
  もし。
  もしも、助かる手段があるとしたならば。
  それは、天災などそういった類の偶発的な外的要因しか在り得ない。
  そんな偶然が起こるだなんて信じることは到底できない。
  だが、今の僕にはそれを祈ることくらいしかできない。
  ただ、願いを込めて心中で叫ぶ。
 目は瞑らなかった。
  死が目の前に迫っているのにも関わらず、目だけは瞑らない。
  どうしてか、そうしてしまったと同時に自分の中で諦めたことを肯定してしまうことになりそうだったから。
  剥き出しの鉤爪が、頭蓋の頂点にに到達する。
  少しずつ埋まっていくのが判る。
  血が溢れ出して行くのが判る。
  死ぬということが判る。
  それでも。
  僕は、諦めるわけにはいかなかった。
  目は瞑らず、逆に見開く。
  眼力でどうにかなるなんては思っていなかったが、どうしてか、そうしなければならない気がしたのだ。
  もののコンマ何秒後には、僕の身体は真っ二つになっているのだろう。
  死ぬことが怖くないわけじゃない。
  ただ、諦めることがそれよりも恐ろしいだけだ。
  だから、僕は信じる。
  他力本願だと、笑われるかもしれない。無様だと笑われるかもしれない。
  それでも良い。
  だから。
  まだ、生き延びなければならない。
  ――酷くスローモーションの視界の中。
  僕に爪を突き立てる河合莉音。
  一瞬のことだった。
  その身体が、脈略無く真横に吹っ飛んでいった。
「……っ!?」
 急激に、世界の速度が加速する。否、緩慢だった世界が元の速度に戻ったのだ。
  左方向から、何かが何かにぶつかったような鈍い音が聞こえた。
  河合莉音が公園の両端に聳える樹を激突しへし折った音だった。
  その周りが、ドライアイスのような土煙で包まれる。
「……な……」
 何が起こった?
  いや、僕は見ていたはずだ。
  あの緩慢な世界の中で、突風の様に現れ、河合莉音に深々と突き刺さった黒いヒールの爪先。
  どこかで見たその黒いヒール。
 毎日見ていた黒いヒール。
  風の様に現れた彼女が、ゆっくりと振り返る。
「――あ、あ」
 失くしてから気づいたその大切さ。
  追いかけても追いつけなかったその華奢だけれど、力強い意思を持った後姿。
  彼女は、にこりと微笑んで、僕に言った。
「危なかったな」
 場違いな程に、綺麗な笑顔。
「……なん……で」
 驚愕の余りか思ったように声がでない。
  会ったら言いたいことが沢山あったはずなのに。
  彼女の笑顔を見た瞬間に全て霧散してしまった。
  僕にとっては奇跡的とも言えるこの再会に、用意していた言葉などなんの価値も持たないのだろう。
「オフィ……リアさん」
 だから、僕はいつものように彼女の名前を呼んだ。
  感極まってとてもいつもの通りとはいかなかったが。
  それでも、あの何事も無かったあの日々の中で呼んでいた様に、せめてそう心がけて呼んだ。
  オフィリアさんはそんな僕を、困った様で優しい表情で微笑んで見つめる。
「カスミを危険な目に合わせない為に出て行ったのに、結局こうなっちゃうなんてね」 それから、一つ溜息を吐いて自虐的な笑顔を見せる。
「それだったら、あんなに悲しい思いをしてまで離れなければ良かった」
 驚きで思わず顔が強張る。
  悲しい思い。
  彼女は言った。
  あんなにさっぱりとした態度で別れたオフィリアさんも、僕と同じような気持ちだったのだろうか?
  何故だろう、胸の奥の方が温かくなる様な錯覚に陥る。
「オフィ……」
 そう彼女に呼びかけようとした瞬間。
「――ああああああああああっっ!!」
 上に重なるように折れた大木の幹を、力任せに上空に吹き飛ばしながら、獣が咆哮を上げ立ち上がる。
  大木が地面に落ちる。
  恐ろしい落下音と、地響きが発生した。
  あんなものの下敷きになったら。そう考えるとぞっとする。
  だが、
「やってくれるじゃない……。ところでアンタ誰よ」
 その下敷きになった張本人はまるで気にしていない様子で悠然と立ち上がっていた。いや、大木なんかよりも、その前にオフィリアさんから凄まじい蹴りを腹部にまともに喰らっていたはずだ。
 今はとりあえず、オフィリアさんがどうしてあのような人外な破壊力の蹴りを放つことができたのかは保留とするとして。
  考えるべきは、河合莉音が全くのノーダメージである件についてである。
「貴女に教える義理はないわね」
 彼女もその辺りには気づいているはずだが、あくまで涼しい顔で答える。
  涼しい表情。それを遠くから見つめている分には気づかないのだろうが、こうして少し落ち着いて近くからその表情を眺めると判る。
  涼しげな目元、その上の額に浮かぶ玉の様に滲む汗を。
  暗くて気づかなかったが、意識して見れば、顔色も若干……否、相当悪いように思える。
  ふと、彼女の腹部を見た。
  赤い服を身に纏っているので気づきにくいが、良く観察して見ると腹部の部分のみが赤黒く変色している。
「オフィリアさん、それ……」
 僕がそう言うと、彼女はこちらをちらりと一瞥し、一指し指を口元に当てる。
  黙っていろ、そういうジェスチャだった。
「……っ……」
 そう言われたら、もう何も口にはできない。
  僕は、大人しくこの場をオフィリアさんに委ねる。
「へぇ……」
 そんなことには気づきもしない獣が呟く。
「あの蹴りの威力……。そうか、アンタもそうなのね」
 一人納得したように呟く。
  それに対しオフィリアさんが言葉を返す。
「……さぁ? 貴女が何を想像してんのかは知らないけど。快楽殺人の野良猫と一緒にしないでくれる?」
「……なんですって……!?」
 挑発的な言葉を返しながら、彼女は獣には見えない様片手を小さく縦に振り僕に指示を出した。
  出口に向かってゆっくりと距離を縮めろ。恐らくそう言った指示で間違いないだろう。
  彼女の顔を一瞬だけ覗く。汗の量が増えている。相当に辛い傷のようだ。
  僕の背中で未だ気絶しているポッポのことも合わせて、それぞれの傷のことが心配になってきた。
  早く手当てをしないと、まずいかもしれない。
  そんな考えが脳裏を過ぎる。
  それが、少し下がる足を勇ませたのか。
「……あらあら、後ろの男の子。逃げちゃダメよ」
 獣が、こちらに向かってそう囁いた。


25.「escape」


  気づかれた。
 ち……。オフィリアさんが静かに舌打ちを鳴らす。
  恐らく、足手まといな僕達を逃がした後に、彼女は獣の相手を適当にして逃げるという算段だったのだろう。
  理由は判らないが、オフィリアさんの先程の飛び蹴りを見た限り、どうやらオフィリアさんも獣に対抗できるくらい、つまり人外だと言えるレベルの身体能力を持っているようだ。
 一瞬のことだったとしても、それくらいは、僕にだって判る。
 そのことを考えると、それは今までで一番現実的な案だと思える。
  が、その案も早速見破られてしまったようだ。
  しかし――。
「いや、逃げ切れる分は下がることが出来たさ。いくらアンタでもそこからは追いつけはしないだろう?」
 そう、周りを見渡してみると、意外と出口に近づくことが出来ていた。
  この距離ならば逃げ切れるかもしれない。
  だが、その僕の言葉に獣は乾いた反応を示す。
「ま、やってみれるもんなら、逃げればいいじゃん」
 片手を竦めるように挙げて僕をあえて逃がそうという意志を示す。
「……なめるなよ」
 僕は、その妙に居心地の悪い態度に反発心を覚え、一気に出口に駆け出す。
  先程まではオフィリアさんと再開することが最優先であったが、今はとにかく全員が生き延びてここを脱出することが先決だ。
  オフィリアさんの言葉を思い出す。「離れなければ良かった」と。そう言った。
  だから、僕はもう彼女はどこにも行かないと信じることにした。
  そう、彼女のことを信頼することに決めた。
  だから、彼女の提案したこの策を実行することに迷いは生じなかった。
  彼女が僕達を逃がし、その後オフィリアさんも脱出するというこの策が、一番全員が生存して期間することのできる可能性が最も高い選択肢だと彼女は考えたのだろう。
  だから、僕もそれに従う。
  ポッポを背負いなおし、後方に注意を向けながら出口から出ようとした瞬間。
「……カスミ! 前だ、避けろ!!」
「……え?」
 突如後ろから響いたその声に、思わず足を止める。
  その思わず止まったことが、命を救うことになるとは思いもしなかったが。
  公園の外側から突如出現した黒い影の群が、目の前を切断するように縦に鋭く振り下ろされる。
 その姿は、牢屋から手を出し生者を憎む囚人を連想させた。
  振り下ろされた腕の風圧で、眉まで垂らした前髪が舞う。
  後一歩でも前に出ていたら、喰らっていただろうことは間違いない。
  助かったとはいえ、背筋が凍った。
「な……!?」
  そのまま後ろにじり、と下がる。
  ポッポの背中が、オフィリアさんの背中にぶつかる。
 オフィリアさんは、出口の影達を一瞥し憎々しげに呟いた。
「ち……。もう追いついてきたっての? 最っ悪のタイミングだわ」
「オフィリアさん……、追いついてきた、ってどういうことです?」
 僕は、背中合わせに彼女に問いかける。
「っていうか、この状況は一体なんなんですか……?」
 ずっと考えていた疑問をこの際に、とぶつけて見る。
「……、その話はとりあえず後だ。今はまず本気でここから逃げることを考えないと。――喰われるわ」
「喰われる?」
 その表現の仕方は一体どういうことだろう。
  そう考えた時だったか。何を合図としたか判らないが、反対側の獣と、前方の影の軍団が爆ぜるようにこちらに押し寄せてきた。
「うわぁあああああっっ!!」
 僕は、その異様な光景に声を上げて叫ぶ。
  その後ろで、
「……くそっ、使うしかない、か」
 悔しげに、そして妙に冷静沈着な声が聞こえた。
「カスミにだけは……。見られたくなかったんだけどな」
  そう呟くと同時、彼女は地面に掌をつけた。
「何をしてるんですか!? 早く逃げないと……!!」
 僕は、彼女の行動の意図が判らず、焦りの声を上げる。
「いいから、黙ってろ!」
 彼女は汗の滴る表情に眉を寄せ、叫ぶ。
「は、はい……」
 そのあまりの迫力に、弱々しい返事を返すことしかできなかった。
  影と獣が迫る。
  迫る。
  もう、時間が無い。
  焦った心持ちで、オフィリアさんを見ると、彼女は辛そうな顔で腹部をもう片方の手で押さえながら何かを呟いた。
「……形状変化」
「……何?」
 獣にも、その呟きは届いたのか、舌打ちをし、訝しげな表情で攻める足を止めバックステップで後方に下がった。
  獣が何を悟って下がったのか、僕には全く検討がつかない。
  焦りと困惑で苛々とした疑念が渦巻く。
  何を始めようとしているのか。
  とにかくここから逃げなくてはいけないのに!
  僕は焦燥し、憤慨する。
  逃げ道が塞がっていることも忘れ。
  僕は眉を潜める。
  早く、逃げないと。
  僕がそうオフィリアさんに叫ぼうかと口を開いたと同時。
  彼女は地面の砂を勢い良く掬いあげ、
「……ふっ!!」
 後ろを振り返り、影の軍勢の真上に向かって放り投げた。
  まさか、あの砂で先程の僕のように目を潰すつもりだろうか。だとしたら、まるで方向が見当違いだ。
  が、その数秒後に、まるで見当違いだったのは僕の方だと気づかされる。
 彼女は、そのまま舞い上がる砂に手を翳し、言葉を紡いだ。
「……形状精製……!」
 それと同時に、思い思いに舞い上がっていた砂が、意志を持ったように空中で形を作り始める。
「……え……?」
 僕は、その光景に驚嘆の声を漏らすことしか反応の術を知らなかった。
  意志を持った砂は、空中で無数の針のような形を成し、そのまま制止した。
  それを確認し、オフィリアさんが叫ぶ。
「照射!!」
 その言葉を合図とし、無数の砂の針が空中から急降下し、影の軍勢に襲い掛かる。
  それは、元が砂粒だとは思えないほどの強度を持ち、影に突き刺さっていく。否、貫通し、地面に突き刺さる。
「…………!!!」
 影が、言葉にならない苦痛の声を上げる。
「なん、だよ……。今の……」
 その異様な光景に目を奪われていると、ふいに、左腕が引っ張られた。
「ぼっとしてんじゃないの! 逃げるよ!!」
「……? ……あ、あぁ。はい!」
 一瞬遅れで、すべきことを思い出した僕は、苦しむ影の軍勢を横目に、オフィリアさんの後を着いて出口に向かって駆け出した。
  後ろをちらりと一瞥すると、砂の針は、獣の目前にも牽制するように降り注いでいたらしく、後を追ってくる気配はなかった。
  まだ気が付かないポッポを背負いなおす。
  ……腑に落ちないことがありすぎる。
  ……理解できないことが多すぎる。
  だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
  そう思い、足と肩の痛みを堪えながらも、僕達は全力疾走で公園を後にした。
 

26. 「そして振り出しに戻らない」


 窓ガラスに向かってその辺りに転がっている石を拾って投げる。
  甲高い音を響かせながら、窓ガラスは内部に向かって粉々に砕け散った。
  割れた窓ガラスに向かって外部から風が吸い込まれるようにして進入する。平穏を保っていたカーテンがばさばさと音を立てて揺れた。
「早く、中へ」
 隣で壁に身体を寄せるようにして立っているオフィリアさんは頷き返し、気だるそうに割れた窓から中へ入る。
「破片に気を付けてくださいね」
「あぁ……、うん。判ってる」
 いつもならここでおどけた台詞の一つや二つ言い返してくるものだが。
  オフィリアさんの寄りかかっていた壁を見る。壁にはペンキをぶちまけたように紅い液体が付着していた。
  彼女は相当に消耗しているのか、返事もどこか簡略化されたものばかりになっていた。
  そのすぐ隣でやはり壁に寄りかかっているポッポに声をかけた。
「大丈夫か?」
「……うん、なんとか」
 ここにくるまでに気絶状態から回復はしたものの、意識はぼんやりとしたままなのだろう。
  焦点が合っていなそうな瞳をこちらに向け、ポッポは力無く頷く。
「ほら」
 ポッポに向かって手を差し出した。
「ありがと」
 その手を素直に握り返す。手を後方に引いて、勢いと共にポッポの身体を強引に起こし上げた。
  窓枠の接着部分に残ったままのガラスの破片を石で細かく砕き、ポッポの背中を押したり足を持ち上げたりすると、やっとポッポは内部に入ることが出来た。
  それに続いて僕も中に入る。
  風に煽られはためくカーテンを片手ではねのける。
「どうですか? オフィリアさん」
「……うん、なんとかなりそう」
 薬品の匂いがたち込める部屋の中、オフィリアさんはその薬品臭の原因と思わしきガラス戸のついた棚を漁っていた。
「でも、大丈夫……かな?」
「何が?」
 体力が若干回復してきたのだろう。ポッポが肩で息をしながらも話しかけてきた。
「だって、ここ学校なのに、ガラス割っちゃったりして……。問題になりそう」
「今はそんなことを言っている場合じゃないだろう」
 今僕たちがいる場所は、僕達が通う高校の第二校舎の一階の端。この学校唯一の医療部屋、つまり保健室だった。
「でも、きっと皆に言っても信じてもらえないと思う」
「…………大丈夫だよ」
 とは言ったものの、僕もこんな話が誰かに信じてもらえるとは思っていない。そう、現実的に考えれば、ポッポの心配も当然のことだと思う。
  しかし、現実にこうして重傷者が二人もいる状態なのだ。これを緊急事態と言わずになんと言うのか。
「こういう事態に有効利用しないで、何のための保健室だよ」
 わざとらしい正論を口にする。
「……うん。そうだね」
 本当にそう思ったのか。疲れから会話を一旦停止したかったのか、どちらか僕には判断できなかったが、とりあえずは表面上だけでも納得した様子だった。
 ポッポのような現実的な心配事を僕もしなかった訳ではないが、誰か他人がいると思わしき場所に行く事は極力避けたかったのだ。
 ここに来る途中に聞いたのだが、やはり最初のオフィリアさんの部屋への襲撃は先程の奴らが原因だったらしい。そこから更に詳しい話を聞きたかったが、オフィリアさんは走っているだけで辛そうだったので、一先ずそこは不問ということにしておいた。
  そう考えると、僕やオフィリアさんのアパートはもう場所が割れているだろうし、ポッポの家は家族が巻き込まれる恐れがあるので、除外。病院なんて持ってのほかだ。
  警察に逃げ込むことも考えたが、オフィリアさんは今警察に指名手配レベルで捜索されているし、それを説明している時間も余裕もなさそうだと言う理由から、警察署も除外された。
  そうして消去していった結果、医療用具があり、人気の無い場所と言うのがここしか思い浮かばなかった。
「さてっと……。大体こんなものでイケるかな」
 棚を漁るのを止め、両手一杯に包帯やら薬品のビンやらを盛り沢山に積んで、オフィリアさんがこちらに歩いてくる。
  それを、多分この保健室の先生の物なのであろう机に乱暴に置き、その机に腰を掻けて足を組んだ。
「あぁあ……。いつも思うけど、こういう傷自分で治療すんのって憂鬱になるんだよなぁ」
 ぼやきながら、オフィリアさんが上着を捲くり上げる。
  いつも。
  そうと言う彼女は、いつもこんな治療をする必要が生じるのだろうか。
  そう考えると、僕は知っているようで彼女のことを知らなかったのだな。と少々憂鬱な気分になった。
  彼女の良く引き締まった綺麗な腰と、その反面ぽっかりと穴の開いた傷口が見えた。 なんとなく言葉を失くし、数秒その光景に目を奪われる。
 すると、
「……何見てんだよ」
「霞くん、不謹慎」
 前方と背後から凄まじいジト目で見られていた。
  何だか理不尽に信用が失われる予感がしたので、慌ててカーテンを潜り、割れた窓ガラスから身体ごと外に目を向けた。
「……カスミ」
「……な、なんですか」
 どうして僕が追い詰められているような雰囲気になっているのか。
「まぁ、見たかったらいつでも見せてやるけど。時と場所と場合は考えろよな」
「…………」
「返事」
「……はい」
 理不尽過ぎる。
「……仲、良いんですね」
 ふいに、ポッポの声が聞こえた。
「え? あぁ……。まぁ、ね」
 オフィリアさんが曖昧に答える。別に隠すような後ろめたいことがあるわけでもないのに。
  ……それにしても、どうして僕とオフィリアさんはここまで気を許し合える関係になったのだろうか。その理由を思い出そうとしたが、ポッポの声が聞こえてきたので、思考が中断される。
「……いいな。……貴女が、羨ましい」
 どこか寂しそうにポッポが呟いた。
「……何言ってるんだよ。僕とポッポだって仲、良いじゃないか」
「…………」
 何故か、沈黙する。
  ふいに、オフィリアさんがポッポに声をかけた。
「……そうだ。お嬢ちゃん。これ顔に塗っとけよ」
「……えっ?」
 急に声をかけられたからか、話題をそらされたからか、あるいはその両方が原因だったのか。驚いたようなポッポの声と、何かを受け取るような乾いた音が静まりかえった校舎には良く響いた。「……これは?」
「患部の炎症を抑える薬。塗っとかないと、腫れちゃうから」
「ありがとう、ございます」 
 カーテンを堺として、反対側から治療を想像させる音が聞こえる。
  僕も右肩と左足を負傷しているが、多分二人程酷くは無い。後回しでいいだろう。
「……く……うっ!」
 オフィリアさんの苦痛を耐えるような声が時折聞こえる。
  ああいった怪我を自分で治療するのは、相当辛いと思う。
  あくまで想像でしかないのだが。
  視線を、自分の左脚に移す。
  だが、もしこの小さな孔が空いた足を、自分でピンセットを摘み消毒液を含ませたガーゼで消毒し、針を痛みで震える指先で摘み、縫う作業をしたら。
  想像しただけでもかなり痛かった。
  どうやら、こういう作業は自分で行うのには、本来感じる以上の痛みが走るものらしい。
  かと言って、オフィリアさんに追い出された手前、僕が手を貸しにカーテンの反対側に行くのもなんとなく躊躇われる。
  と、僕がどうしようか迷っていると、足音が背後から聞こえた。
  反射的に首だけ回すと、空いた窓から流れ込む風ではためくカーテンの下からあちら側がちらりちらりと覗いて見えた。
  ポッポの足がオフィリアさんの方へ動く。
「貸してください」
「…………え?」
 自分の分の治療が終わったのだろう。ポッポがオフィリアさんの前に近づいて言った。
「私、こういう傷見てもあまり抵抗ないんです」
「……え、でも」
 ポッポの行動が意外だったのか、オフィリアさんの困惑した声が聞こえる。
「いいから。ちょっと痛むかもしれないですけど、大人しくしていてくださいね」
「……あ、ちょっ……! ……っ!」
 恐らく、ポッポが強引にオフィリアさんから治療用具を取り上げ、ポッポが代わりに治療を始めたのだろう。
  その様子を見て、僕は安心して再び外へ視線を向ける。
  ああいった治療は、自分でやるよりも他人にやってもらった方が精度に大分違いが出る。
  ポッポもそれほど治療に抵抗が無いみたいだし、手際を知っているオフィリアさんが手順を説明しながらやれば、多分大丈夫だろう。
  背後から「あ、ごめんなさい」とか「ぎゃあああ」とか叫び声にも似た声が聞こえてきたが、素早く耳を塞ぐ。聞かなかったことにしておこう。
  良く分からない成り行きで、結局一緒にこの場所まで連れてきてしまった二人だったが、なんとなく馬が合うようで良かった。
 
  それから数分。
  両手を耳から外す。
  悲鳴が止んだのに気づいた僕は、カーテンの向こう側に向かって声をかける。
「もうそっちに行っても良いのかな?」
「……はぁっ……はぁ。うん、ふぅ。もう良い、よ……」
 なんだかやたら呼吸が荒いのは気のせいだろう。
  カーテンを潜ると、机の上で凄まじく冷や汗を書いているオフィリアさんと、膝に手を付いて肩で息をしているポッポがいた。
  僕はそれに対し、
「なんでそんな疲れているのかはあえて聞きませんから」
  と、だけ言った。
「いや、聞けよ。まさに戦争だったぞ」
「うん」
 ポッポとオフィリアさんが息を合わせて、今しがた起こった惨劇を話したそうな目でこちらを見てくる。
  そんなところで意気投合されても。
「それにしても……」
  二人の腹部と顔の左半分が各々包帯でぐるぐると巻かれている。
  真新しい真っ白な包帯だった。
「二人とももうほとんど治っているの? 血があまりでていないみたいだけれど」
 僕は、なんとなく思ったことを率直に質問した。
  それに対し、オフィリアさんが、妙に神妙な顔つきになる。
「……あぁ。それについて今から少し話をしようと思っていたところ」
 オフィリアさんが、ポッポの顔を見る。
「多分、こっちのお嬢ちゃん……涼子も、そうなんだろうな」
「……その通りです。お姉様」
 いつの間にか大分仲が良くなっているらしい。お互いの呼称の仕方が変わっていた。 僕が耳をシャットダウンしている間に何か二人の間であったのだろう。そこについては特に言及しないことにした。
  それよりも、気になることがあった。
「ポッポが、何だって? それが、血が出ていないことと何か関係があるのか?」
 僕のその言葉に対してオフィリアさんが、一息溜めて、言った。
「……ああ、大在りだ。血どころか、さっきまでの怪奇現象のことも含めて全部、な」


27.「明かされる力」


「あんなことがあっちまったんじゃ……、カスミももう無関係って訳には行かないだろう?」
 オフィリアさんが僕に問いかける。
「それとも、何もなかったことにして、家に帰って寝るか?」
「冗談でしょう? 見なかったことになんて、できない。それに、僕がそう望んだとしても河合さんの方はそう思ってはくれませんよ」
「河合って、あの妙に頑丈なライオン女か」
 オフィリアさんが呟いて小さく舌打ちをする。多分彼女の頭の中では大木の中から平然と歩いてくる河合さんの姿がリピートされているのだろう。
「あの女、手負いとはいえあたしの蹴りを喰らってけろっとしてやがった」
「ええ、引き下がる風ではありませんでしたね。それに、彼女本人が言っていた通り、彼女達が最近の惨殺事件の犯人ならば、次の殺しのターゲットが僕らに定まったのは間違いない」
 僕がそこまで言うと、ポッポが口を開いて言葉を付け足す。
「場所なんて関係無いって言っていたし」
「まぁ……」
 オフィリアさんがうんざりしたように言った。
「どう考えても、このまま……。って訳にはいかないだろうな」
「でしょうね」
 ポッポもそれに同意する。
  そこで僕は気が付いた。
「なんか……。ポッポもある程度事情を把握している風だけれど?」
  ポッポは一度罰が悪そうに俯き、顔を上げて言った。
「そうね、私もどちらかと言うと当事者に近いから。少なくとも霞くんよりは事情は把握できてるつもり」
「事情って?」
 僕が言うと、オフィリアさんが被せる様に言う。
「まぁ、そう焦るなよ。奴らがここを特定するにも多少は時間がかかるだろうし。一つ一つ説明するからさ」
 焦るなと言われても無理があるだろう。と、僕は思ったが、ここは大人しく聞いた方が良いだろうと判断し、黙っていることにした。
 
「説明するより、実際に見てもらったほうが早いかもな」
 オフィリアさんはそう言い、組んでいた足を戻し机から腰を浮かせた。
「よっと……。とりあえず、これ見ろ」
 リノリウムの床に降りたオフィリアさんの手には、いつのまにか一本ボールペンが握られていた。机にあったものを一つ拝借したのだろう。
 僕は頷き、彼女のボールペンに視線を集中させる。
  華美な装飾が施され、中々高価そうなボールペンだった。それ以外に特におかしな所はない。
「あはは、そう疑ってかかるなよ。手品って訳じゃないんだからさ」
 そう言われたものの、僕の中にはまだよく把握できていないので仕方ない。
「ボールペンだけ、ってよりも……。そうだな、あたしの全体像を捕らえるように見ててもらえると助かる」
 僕は、その言葉に従順に頷き、前かがみになっていた姿勢を元に戻した。
 今度はオフィリアさんの頭から足元まで良く見えるようになる。
  それを見て、オフィリアさんは一度満足そうに頷くと、言った。
「良し……。じゃあ、やるよ。涼子も一応見とけよ」
 その言葉にポッポも一度頷く。
  オフィリアさんはボールペンを指で回し、こちらにその先端を向けて固定した。
 それからオフィリアさんは、何かを念じるかの如く目を閉じる。
  一瞬の静寂。
  背後のカーテンが風ではためく音がやけに五月蝿く聞こえる。
 目の前の美麗なる女性の唇から、風が駆け抜けるような呼吸音。
  そして、直後。
「――形状変化。精製」
 唄う様な声と共に、何の変哲も無いボールペンが発光を始める。
 そして、両の眼を見開く。
  その両眼は、深い蒼に染まっていた。
「……なっ……」
 いつもの様な淡い青ではなく、闇に染まった空の下でも視認できるほどに、鮮やかで深い蒼。
 あの獣と同じ瞳の色。
  僕の驚愕を気にも止めず彼女は言葉を綴る。
「イメージ固定」
  発光がより強くなる。
「――射出」
 その言葉と同時。
  左の眼の数センチ横。髪を微かに切り裂いて、何かが背後に飛んでいった。
  否、伸びていった。
  乾いた音だけが耳に届く。
  五月蝿いカーテンの音は、もう止んでいた。
「――え?」
 切り裂かれた髪の毛が、目の前を舞うようにして落ちた。
  ―――。
 何が起こった?
  急いで背後を振り向く。
  僕の頬のすぐ隣を疾走したボールペンは、本来の形を全く留めておらず、はためいていたカーテンを伴って、静かに窓枠に突き刺さっている。
  ――求められた形になっただけ。
  異様だが、これもまた自然なのだと。
  まるで、そう言わんばかりに。
「…………」
  現状をなるべく冷静に観察できるよう、心に命ずる。
  落ち着け。
  一度全てをリセットすべく目を閉じる。それからいつの間にか止まっていた呼吸を再開し、目の前の怪奇を見据える。
  先程まで眩く発光していたボールペンは、今はすっかりその光を失っていた。
  その代わりに、僕が良く知る「ボールペン」。その形はすっかり変容しきっている。「これ、は」
 その先端は彼女のすらりと伸びた指先から、僕の背後の壁まで真っ直ぐに鋭く伸びている。
  まるで槍。
  それか、幼い頃聞いた御伽噺に出てくる、妖猿が携える伸縮自在の棒のようだ。
「まるで、如意棒。ですね」
 僕は想像したイメージをそのまま口に出す。
「いや、まぁ見た感じは似ているけど。アレとは根本的に違うよ」
 彼女はその声に反論した。
「あの妖猿の棒は、その大きさ、太さのまま際限なく伸びていくだろう? あたしのこの力は、質量までは変えられないんだ。見ろよ、伸びた分だけ細くなっているだろ」
 僕の左目の横で壁に突き刺さった衝撃に未だ振動を続けるボールペンに視線を移す。 その金属の棒は、針のように細く変容していた。
「……でも。こ、ここまで細くなってしまったら壁に突き刺さる程の強度は」
 そう、無いだろう。
  いくら速度を付けて伸進したとしても、こんなに細くなってしまったらコンクリートの壁に穴を穿つことなどできないはずだ。
 目の前で、未だボールペンを撫でる彼女は、その疑問は最もだと言いたげに瞳を細めて言う。
「そうだな。そこも如意棒とは違う点だよ。あたしは硬度も自由に変化させることができる。材質によって限界はあるけどな」
 それに。彼女は言葉を続ける。
「別に、変化の対象はボールペンに限った事じゃない。物質であればほぼなんでも可能だよ」
 目の前が、一瞬暗転する。
  眩暈がした。
  もう、冷静を保って質問なんてしていられない。
  堪らなくなって、僕はついに心の奥で常に疼いていた質問を口にしていた。
「……一体」
 いつの間にか、あの獣の形相と殺意を思い出し、身体が震え始めている。
「一体何なんですか。……この力は」
 彼女は一瞬だけ言葉を詰めて、それからはっきりと臆せず言った。
「あたし達は、普通の人間じゃない」
 そういえば、あの獣もそんなことを言っていたような気がする。
  公園で聞いた彼女の声を思い出した。
  ――ちょっと特別な、人間なの。
「手品とかじゃあ、ないんでしょう? 現実、なんですよね」
 力無く僕は呟く。まるで、平穏だった日常にまだ僕は残っている。そんな希望に縋り付くように。
「うん。……現実だ」
 彼女は、僕のその希望を知ってか知らずか、一言の元に切って落とす。
「何の為に生まれたのか判らない、怪奇で特異な異能。それがあたし達だよ」
 その言葉が、静寂に響き、そして夜の闇に染みた。
  残響が耳に残る中、鳩村涼子が言葉を付け加える。
「うん。そして……。私も、そう」
 力無く、鳩村涼子の顔を見る。
  平穏だった当たり前の日常が、崩れて行くのを感じた。
  今までなるべく冷静に、乱さないよう努めてきたがもう無理なのだろう。
  そう、悟った。
  ただ、先程まで然程動じていない風にしていたのは、この眼で見た現実を認めたくないが為の逃避だったのかも知れない。
「……そうだった、のか?」
 まだ辛うじて残っていた理性で返事を返す。
  鳩村涼子は、僕の表情を見て泣きそうな顔で頷きを返し、肯定の意を示した。
  そして、誰にとも取れない様な声で、オフィリアさんが呟く。
「……そして、この異能な力はこう呼ばれているよ」
 そう。
「――カルマ。ってね」


28.「覚悟」


「カルマ……だって?」
 何だそれは? その言葉と同じ響きと意味を持たせて呟く。
「宗教的にも使われますよね。それと言葉と同じ意味ですか?」
「まぁ、大体意味は同じようなもんだと思ってもらって良い。名前……、この場合名詞か。まぁ、どちらにしろ言葉ってのはその単体で意味と力を持つものさ」
 オフィリアさんは、鼻を一息鳴らす。
「業……、もしくは宿命」
  その意味を口に出しつつ、ポッポに視線を移すとポッポも僕を見ていたらしく目が合った。その瞬間、私は判らなかったけど。そんな風に首を横に振るポッポ。
「用途は違うけどな」
 皮肉気に言いながら、オフィリアさんは壁からボールペンを抜いた。
  そして、
「イメージ逆算。再構築」
 小さく唄うようにそう呟く。
「あ……」
 すると再びボールペンは淡く、それからすぐ後に強く光を発し、元の形に戻った。
「一端だけど、とりあえずはこれがあたしの――」
 一瞬、思いとどまったように言葉を止める。が、その後に止むことは無く、言葉は確かに彼女の声で紡がれた。
「――能力なんだよ」
 僕は、それに確固たる意志を持ったその声に対し、肯定する言葉も、否定する言葉も思いつかなかった。
  楔を失くしたカーテンが、再び背後ではためく音をたてる。
  だがそれは、ただの背景としての音であって。
  気まずさを伴った静寂は、静寂として、依然この場に留まり、去る様子を見せなかった。
  判っている。この気まずさを作り出しているのは僕なのだと。
  未だ、あの平穏にしがみ付こうとしている僕の惨めさなのだと。
  だが僕は。
  僕は思う。
  平穏を求めて。何が悪いのだと。
  誰に対してか、そんな悪態を心の中で吐いた。
  その誰かが、こう反論する。
  ――平穏とは、平和とは、何なのだ。と。
  瞬時に答えることなど、できなかった。
 不意に。
  ぎり、と何かが擦れる音がして、現実に立ち戻る。それでようやくその音は自分の歯で生じたものなのだと気が付いた。
「霞くん……。大丈夫?」
 心配してくれたのだろう。ポッポは心配そうに僕の顔を見上げていた。僕の表情はよほど歪んでいたらしい。覗き込むポッポも、腕を組んでこちらを見据えるオフィリアさんもどこか罰の悪そうな顔をしていた。
  ポッポの顔の半分は包帯で隠れ、どこか痛々しい。
  オフィリアさんも、平然としている様子を見せているとはいえ、直ぐに痛みが治まるような傷ではないはずだ。
  それでも彼女たちは、自分達の回復よりも、僕の精神を安定させようと、僕の疑問を解決しようとして、話してくれている。
  それなのに僕は。
  なんという、弱さ。
  平穏に縋り付き、異だと反応するものは認めない。
  いや、認めないのではない。
  信じたくないだけ。
  自分でも良く判っている。
 
  ――平穏など、遥か昔に壊れたはずだろう。
 
  仮初の平穏を信じていたかっただけだ。
  こんな僕でもまだ。
  平常な毎日を暮らせて行けると。
  あたりまえな世界はまだ続いているのだと。
  受け入れがたい世界など、始まっていないのだと。
 
  ――知らない振りを。見なかったことにすることを。
 
  僕は今、自分の弱さを改めて理解し。
 
  ――止めるんじゃなかったのか?
 
  彼女達の強さを理解し。
 
「ああ、そうだ」
  心の声に呼応するように答えを口にする。
「僕は」
  この世界を見据える覚悟を。
「もう逃げることは止めることを」
  改めて、
「決めるよ」
 呟くように。だが、しっかりと言葉にした。


29.「真か偽か」


「カスミ、まだ間に合う」
 拳を握り締め、表情を歪めた僕を見かねてオフィリアさんが言う。
「お前はまだ帰る場所がある。故郷があるだろ? もし、この世界を受け入れがたいと思っているなら、帰るべきだ」
 オフィリアさんは続ける。
 痛みを隠そうと必死に表情を強張らせながら。
「いや、それが普通だ。恥じることじゃない。いいか。その間、あたしと……」
 そこで一旦、ポッポに視線を移した。
  ポッポは、判っている。と言う風に頷きを返す。
「涼子が奴らを引き付けるから。あたし達はカルマの能力で総じて常人よりも遥かに身体能力が上だし、傀儡使いにはそう簡単にはやられないさ。その間に故郷へ、せめて街を出れば……」
「ふざけないでくださいよ」
 彼女の言葉を遮って、僕は言った。
「そんな痛そうに顔を歪めて何を言ってるんですか」
「……なっ……」
 隠しきれていると思ったのだろう。オフィリアさんは驚嘆の声を上げる。
  生憎と、僕はそういった表情の変化を読み取ることが得意なのだ。自分で言うのもなんだが、唯一誇れる集中力と記憶力の賜物だろう。
「それにね」
 僕は、オフィリアさんに喋らせる隙を与えずに、自分の覚悟を口にした。
「もう逃げない。そう、決めたんです」
 僕はオフィリアさんを真っ直ぐに見て、言った。
 視線は、逸らさない。
  オフィリアさんはぽかん、と口を開けて僕が言った意味が判らない。という反応を示した。
  意味が判らなくて当然だ。
 僕は男だから、とか。
  二人とも女の子だから、とか。
  そんなことじゃない。
  僕は、僕としてこの世界と対峙しなくてはいけない。
  そう理解し、決意したからだ。
  それは僕にしか意味が理解できない代物だ。
  だからこそ、この決意は折れない。
「お前、自分の言ってること判ってんのか?」
 オフィリアさんは、ようやく僕の言葉を租借し終わったようで、改めて凄んだ目でこちらを見る。
「判ってますよ」
「判ってない! あたしや涼子みたくカルマ使いじゃないお前が、この事に介入するってことは、わざわざ死ぬようなもんなんだぞ!?」
「判ってますよ」
 僕は、同じ言葉をもう一度口にした。
「僕は、オフィリアさんや、あの河合さん……、それにポッポもか。貴方達のように瞳が蒼く変色するわけでもないし、身体能力がその……カルマ。っていう力で強化されてる訳でもない」
 僕はあくまで淡々と話す。
  対照的に、オフィリアさんはいつもと違って語気を強めて言う。
「判っているならなんで……!」
「それが、逃げ続けた僕がすべき贖罪で、僕のすべきことだからです」
 その言葉を、口にした。
  それを聞いたオフィリアさんが、怒気の篭った目で僕を見る。
「お前、死ぬってことがどういうことだか本当に判ってんのかよ?」
 ボールペンを、再び僕に向ける。
「お姉様?」
「ええ……。知ってますよ」
 目の前で、味わったから。
「……正直、今の……手負いのあたし一人でお前達二人を守りきる自信は無い」
 カルマ使いである涼子一人ならともかく、普通の人間のお前まではな。そう、付け加え、更に続けて言った。
「なら、さ」
 そこでやっと一息つき。
  そして、そこから間髪入れずにはっきりと僕に向かって言った。
 
「あいつらにむざむざ殺される前に、あたしが殺すよ」

「お、お姉様!?」
 その行動の次の予測がついたのか、ポッポが悲痛な声を上げて制止させようとするが、オフィリアさんはそれを全く介さない。
  ボールペンが、淡く発光し能力の発動を示す。
  咄嗟にポッポが僕を庇わんと、僕の前に飛び出してくるが、間に合わない。
「……っ!!」
 ポッポが声に鳴らない声を上げ、目を瞑る。
 僕は、目を瞑らない。
 鈍い刺突音。
 カーテンがはためく。
  そのカーテンが時折漏らす月光が、伸びたボールペンの影とそれに重なった僕の影を映した。
 
「…………」
 ポッポが、目を恐る恐る開く。
「………ふぅ」
 ポッポがその姿を確認しようとしたその時、彼女の背後から長い溜息が聞こえ、それから観念したような声でオフィリアさんは、言った。
「敵わないな……。お前には」
 ボールペンは、僕の左胸と左腕の間。僅かに空いていたその隙間を通って、背後の壁に突き刺さっている。
  僕は、一度も目を逸らすことなく、彼女を見ていた。


30.「閑話休題」


「色々、聞きたいことがあります」
「うん。答えるよ」
 僕がそう言うと、賞賛するようでいて、諦めを含めた笑みを浮かべてオフィリアさんは答えた。
「…………もう」
  その横で、保健室の安いベッドに腰を掛けて、不機嫌そうに膨れるポッポがいた。
「なんだよ……、まだ怒ってんのか? ……ごめんってば」
 オフィリアさんが、その呟きに対して言葉を返した。
「何だか、私一人だけ慌てて馬鹿みたい」
 ポッポが悪態を吐く。
「そんなことないよ。僕だって、本当に殺されるかと思ってたし……。それに」
「……それに?」
 ポッポが復唱して、先を促す。
「ポッポが身を挺して庇おうとしてくれたことは、純粋に嬉しかった」
 僕がそう口にすると、ポッポは頬を僅かに紅潮させる。
「……ふんだ。そんなこと言っても……誤魔化されないんだから」
 と言いつつ、ポッポの目元は僅かに緩んでいる。
  それに自身でも気づいたのか、慌てて顔を背けるが、オフィリアさんにもばっちり見られていたらしく、オフィリアさんが意地悪そうに微笑んだ。
「ふーん……。愛されてるね、カスミくん」
「お姉様っ!?」
「オフィリアさん!」
 同時に声を上げた。
  驚いてお互いを見合わせるが、なんとなくオフィリアさんの言葉で気まずい雰囲気を感じ、どちらともなく視線を外した。
 静寂。
  ただ、オフィリアさんだけがニコニコと笑っている。
  まるで今の状況に合っているとは言えない笑顔だったが、何故かその雰囲気はいらないものだとは感じなかった。
  むしろ、オフィリアさんの優しささえ感じた。
  だが、それでは納得できないポッポは、やがて、呟くように言った。
「……そもそも、お姉様が霞くんにあんなことするから……」
 言ってから、自分の言葉が間違っていないと思ってきたのか、段々と語気を強めるポッポ。
「……そうよ。絶対そう。……お姉様。なんであんなことしたんですか」
 後半の方は、もう半分脅しに近い目付きだった。
  オフィリアさんは、ぎょっとしながら諌めるように両の掌をポッポに向けて身を逸らせた。
  僕としては、自分のことで怒ってもらっているにも関わらず、なんだか複雑な心境である。
「……、判った、判ったから睨むなよー。助けて、カスミ」
 言いながら、隠れるように僕の背中に回り込むオフィリアさん。
  何時、敵が襲ってくるか判らない状況なのに、良いのかこんなんで……。
  心境は複雑である。
「お姉様っ!!」
 ポッポが怒気を孕んだ双眸でこちらを睨む。しかも僅かに蒼い。
  ……確かに、これは怖い。というか、ヤバいんじゃ……。
「判ったよ……。確かに、さっきのはやりすぎだった。ごめん」
 オフィリアさんもそう感じたのか、両の手をそれぞれ耳の隣に立てて、降参の意を示した。
「でも、……確かめときたかったんだよ」
「……何を?」
 返答を返すポッポの眼の色が、淡い茶に戻ってくる。オフィリアさんの言葉が段々と神妙になっていくことを感じ取ったのだろう。
「カスミが、本気かどうか。それに、できれば帰ってほしかった」
「あ…………」
 ポッポは、やっとオフィリアさんの意図を理解したといった様子で、罰が悪そうに俯きリノリウムの床を見つめる。
「カスミは自分の身を守る術を知らないし……、さっきも言ったけど、あたしも守りきれる自信が無いから……。あたしの力不足でカスミ……ううん、二人共死んでしまうということが正直怖い」
 その言葉の端々から、本当にオフィリアさんは僕らの身を案じていてくれているのだということが判る。
「……そうですよね……。私も霞くんが……って考えると、確かに、怖い」
 腕を抱いて、ポッポが言った。
  それから、二人とも俯いてしまい、どことなく暗い空気が流れる。
「…………」
 ……いや、心配してくれることは確かに嬉しいけど。
 なんで、
「なんで、僕が死ぬことが決定事項みたくなってる訳?」
 僕は、思っていることを率直に口に出した。
「いや、だから」
 オフィリアさんが口を挟むが、僕はそれを許さず間髪いれずに次の言葉を紡ぐ。
「僕には身を守る術がなくて、オフィリアさん達は僕を守れる程の余裕がない。……でしょ?」
「その通りだけど……」
「大丈夫。自分の身を守るくらいのことはできますから」
 根拠は無いが。
  オフィリアさんは思いっきり怪訝そうな表情になる。
「嘘くせぇ……」
「確かに……」
 背後からも、溜息と共に声が聞こえた。
「だってお前、涼子とフルマラソンして、全然敵わなかったんだろ? さっき聞いたぞ」
 さっき、とは先程の僕が耳を塞いでいた地獄の治療の時だろう。
「うん。全然遅かったし……、ぜぇぜぇ言ってたし……」
  ……ちょっと、僕、良いのかこれで。
  なんだか、このままでは発言権まで薄くなりそうだ。
  今後の保身も兼ねて、フォローを入れる。
「……確かに、あの河合さんをどうにかしろ。と言われたら無理ですけど。あの出口に立ってたゾンビみたいな人達を牽きつけて逃げ回ることならできますよ」
 ゾンビ。自分で言って、言いえて妙だな。と思った。
  確かに、あの人達からは何故か生気めいたものを感じなかったからだ。
「まぁ、そのくらいなら……。確かに、できるかもな」
 オフィリアさんが、呟く。
「でしょう? だから、あの人達の情報を聞きたいんです。っていうか……、聞こうとしてたんです。さっき」
 ポッポを見ると、あ。そうなんだ。と言わんばかりにきょとんとした顔をしていた。自分がその会話を断ち切った張本人だとは自覚していないようだったので、特に糾弾はしないでおくことにする。
「あぁ、そうか。お前達、アレが何なのか判ってないのか……」
 オフィリアさんは、先程からずっと挙げていた腕を、思い出したかのように下げ、ついでにと言わんばかりに、右手で髪を掻き揚げた。
  金色の前髪が一度上げられ、再び落ちる。
「知らないよりは、知っていた方が生きれるかもな」


31.「前準備1」 


 暗い廊下。
  窓から差し込む月明かりの恩恵で、電灯を点けるスイッチはすぐそばにあるということは知っているが、近隣の住民に真夜中の校舎に侵入していることがばれる恐れがあるため、そこに手を伸ばすわけにもいかない。
  結果、そこにスイッチがあることを知りつつも、この薄暗い廊下を歩く羽目になっている。
  左右には誰もいない。一人だった。
  なんとなく、窓下に広がる校庭に目を移す。校庭は、正門と校舎の間にあった。今はとても静まり返っている。
  先ほど、オフィリアさんから一通りのこの事態の経緯とその背景を聞き終えた。
  情報を得、ある程度現在の状況が把握できた。
  カルマという特異な超能力の話。
  オフィリアさんが狙われた理由。
  僕達が、狙われた理由。
  これから確実に襲ってくるであろう状況。
  その全てを、頭の中でもう一度整理しながら、目的の部屋に向かって歩を進める。
  薄闇であるし、慣れしたしんだ場所でもある。さして歩くことに集中することもなかった。目は前方を見据えたまま、脳は記憶を探る。先ほど聞こえた声が、頭の中に甦って反響する。
 
「知らないよりは、知っていた方が生きれるかもな」彼女は言う。
「何を?」
「あの死にたくても死ねない。腐った腕をぶら下げて生き永らえさせられている奴らのことだよ。お前も見ただろう?」
 あの公園のゾンビの様な集団のことだろうか。いや、というかそうだろう。
「見ました。あれは、ゾンビなんですか?」
 その時気絶していたポッポは、僕とオフィリアさんの顔を交互に見ながらきょとんとしていたが、僕は構わず話を続ける。あれは、一見しないと説明しても理解できないだろう。
「ゾンビ。……ねぇ。多少短絡的な単語だとは思うが、大体それと相違ない」
「多少短絡的、ですか。もう少し判りやすく説明して貰えるとありがたいんですけど」
 オフィリアさんは、ポッポをちらりと一瞥する。恐らく、意味は判らないかもしれないが聞いておいて欲しい。と、目で訴えたのだろう。
  ポッポもなんとなくそれを認識したのか、佇まいを治して、オフィリアさんに向きかえる。
「ゾンビって、どういうものだと思う?」
「え?」
 いきなりの質問に多少戸惑いつつも、頭を急遽起動させて答える。
「死んでいるにも関わらず動き続ける者、ですかね。あと、どういった事情にせよ、人を襲うってイメージがありますけど」
「まぁ、そんなとこだろうな」
「その……。お姉様が言うところとは、少し違うんですか?」
 ポッポが、おずおずと質問をする。
「ん? ……あぁ、そうだな。決定的な違いがあるとすれば、自動的か、他動的か。ってところだな」
「他動的?」
「うん。ゾンビって、一応歪んだ意識であったとしても自分で行動を決定し、動くだろう? あいつらは違うんだ」一度、何かに申し訳なさそうに俯き、そして再び視線を戻す。「あいつらは、操られて動いている」
「操られている? ということは」
「そう、裏に黒幕がいる。そいつが今回の事件の元凶だ。いや、そいつのカルマがというべきかな」
「その、……黒幕、のカルマの仕業なんですか?」
「そうだ。奴は、死体を操り自分はその裏で隠れている卑怯者だよ」
「死体? 河合さんも?」
「いや、正確に言うと違うな。奴の前で意識を失ったものも、だな」彼女は言葉を続ける。「だが、生者は恐らく一体が限界みたいだな。生者も無制限なら、今頃この街は奴の木偶人形だらけだ」
「確かに。……死体は無制限なんですか?」
「恐らくな」
 僕は、それを聞くや否やなんだか憂鬱な気分になってきていた。
「カルマって言うのは……一体なんなんですか?」
 僕は、先程と同じ質問をもう一度投げかける。
 オフィリアさんや、ポッポもそれと同類だという事実が、どうしてか認めたくなかった。
 オフィリアさんは、一度迷うように視線を彷徨わせたが、すぐに視線を戻した。
「カルマ……ってのは、な。そいつの深層心理や元来の性質に基づいた具現、体現。そう言われている」
「具現……」
 なら、死体を操ることがその黒幕の本当の性質なのだとしたら。
  なんて悲しい。
  なんて悲しい力なのだろう。
  オフィリアさんや、ポッポ、それに河合さんは……。
「そう、ですか」
 過去を見つめ返すことを拒否していた僕に、それを見抜くことは今は不可能だった。
  だから、今はこの問題は保留しておこう。いつか、自分を知ることができたなら、その時にもう一度問おう。そう考え、話を切り上げ、別の話題に移行する。
「河合さんは、カルマ使いですよね?」
「間違いないな」オフィリアは即答する。「だからこそ、奴にも狙われ、操られているんだろう」
 自分の意志で殺しをしている可能性もあるのに。僕は思う。だが、そこにオフィリアさんの優しさと、信念と、甘さを垣間見た。そんな気がした。
  奴、とは黒幕と呼ばれる者で間違いないだろう。
「黒幕とか奴とか、呼びにくいですね」
 ポッポが、急に間の抜けたようなことを言った。
「まぁ、そうだな」
 オフィリアさんも同調する。頭の切り替えが早い人である。
「なんかないですかね? いいあだ名みたいなの」頬に人差し指を当てて、視線を中空に投げるポッポ。恐らくあれが、彼女の考えるポーズなのだろう。「死体マンとか」
「死体マンって……」
 オフィリアさんが、呆れたような声で答える。
  確かに、奴とか黒幕とかでは言いづらい、というか認識しにくい。僕は思いついたことを口に出した。
「ネクロマンサ」
「え? 根暗マン? なんかすっごい暗そう」ポッポが惚けた顔で言う。
「いやいや、ネクロマンサ。死体躁術者の総称みたいなもの」そのままでも良かったのだが、なんとなく僕の中の良心が働いて訂正してあげることにした。「それにしても……」
 河合さんも操られていたという事実には正直少し驚きを隠せない。あの表情は、どこからどう見ても、心から楽しんでいたような……。そんな顔だった。目を瞑れば今も、瞼の裏にあの真っ赤な三日月のように歪んだ口元が鮮明に浮かぶ。
「操られていたなんて……」
「それも、仕方ないことだ」オフィリアさんは言う。
「仕方、ない。ですか?」
「意識が途切れることがまず絶対条件だが、強く操るためにはどうやらもう一つ理由が必要らしい」僕は口を挟まずに続きを促す。オフィリアさんはこくりと頷いて話を続けた。「元々そいつが持ってる悪鬼。心の闇ってやつだ」
「……闇?」
 オウムのように単語を繰り返す。情報の足りない僕にはそれしか反応の方法がなかった。今は情報を集めることを何よりも優先しなければならない。
  柱に掛かった時計を一瞥する。暗くて見にくかったが月明かりで辛うじて判断できる。
「…………」
  気づけば、ここに来てから既に半刻以上の時が過ぎていた。そろそろ限界かもしれない。だから、今は耳を必死に傾ける。
  オフィリアさんが何故ここまでの情報を持っているか。それは、後回しで良い。
 オフィリアさんもそれが判っているのか、多少走り気味で言葉を綴る。
「あぁ。闇だ。嫉妬、憎悪、最たるもので殺意。人間誰しも少しはてめぇの中に飼ってるもんだ。お前らもそう。あたしも、そう。それが、何らかの理由ででかくなっちまったんだろう。あいつは……。そこを見込まれた、って訳だ」
「なら……」
 河合さんは……。
「ダメだ」オフィリアさんが僕の言葉を遮る。「あいつは殺す。例えそれが自分の意思でなくても、お前らを狙うものであるなら。あいつは殺さなくちゃならない」
 オフィリアさんならそういうだろうことはなんとなく判っていたが……。それでも。
  気づけば奥歯に痛みがあった。
「それでも……!!」僕は食い下がる。
 彼女には殴られたというのに、どうして僕は。
  自分でも良く判ってはいなかった。
  ただ、なんとなく。それはしてはならないことだと。心のどこかが必死で叫んでいた。
  もしかしたらこれは、悪魔の様に冷笑しながら殴った彼女が託した、彼女の最後の意思なのかもしれない。
「ダメだって言っているだろう!」
 オフィリアさんの怒号が響く。静寂な校舎に、その怒気と焦燥を孕んだ澄んだ声は、良く響いた。
「……ち、悪い。熱くなった」
 大声を出せる状況ではないということが、彼女にも判っているのだろう。奴らがこの周辺にまだ来ていないとは限らない。まだ何か言いた気な顔をしながらも彼女は引き下がった。
「とにかく、ダメなものは……」
 オフィリアさんがダメ押しとばかりにその言葉を発しようとしたその矢先。
「私からも、お願いできませんか?」
 突然、ポッポがオフィリアさんに抗議の意を示した。
「なっ……!?」
 オフィリアさんが振り返る。金色の長い髪がたなびいた。
 後ろ姿からは判別しにくいが、恐らく相当に驚いている顔をしているに違いない。僕もこれは予想していなかった。
  なぜなら、
「お前、顔が腫れる程……、いや下手したら死んでたかもしれない程に殴られ、叩かれ蹂躙されたんだぞ? 覚えてるよな?」
「それは、もちろんです。今でも痛いもの」そう言いつつポッポはガーゼが巻かれた頬に手の平を重ねる。
「だから……!」
「だから、私がやります」


32.「前準備2」


「……は?」
「私が、彼女を抑えます」
 オフィリアさんは、前傾になっていた姿勢を戻す。そしていくつか浅く呼吸をした後再び説教に戻る。
「抑えるだって……? 言っちゃ悪いが、いくら涼子がカルマ使いだとしても、あたしにはお前が勝てる……、いや抑えられる可能性すら皆無にしか思えない」オフィリアさんは呆れたような顔で、机に腰をかける。「ダメだダメだ。あのライオン丸はあたしが引き受ける」
「じゃあ、その例のゾンビ軍団はどうされるんです?」ポッポは引き下がらない。
「あいつらは思考能力もないし、数だけだから。なんとかお前達でも……」
「多分、そっちの方が無理です。私」ポッポはけろっとした顔で返答を返した。
 ポッポって、こんな押せ押せな性格だったっけ……?
 オフィリアさんも目を見開いたままだった。どう返答していいか迷っているのだろう。それとも、あまりにポッポの自信っぷりに反応できないか。
「私、なんとなく自分のカルマがどういうものか、ってこと、判って来ました」ポッポは立ち上がる。「怪我の功名ってやつかも……」
「……おいおい」
 僕は大げさに肩を竦めて呆れた顔をしてみせる。
  ポッポのいつもの性格を考えてみろ。恐らくこいつは、少しでも皆に希望を持たせたくて言っているんだろう。その優しさは貴重なものだとは思う。賞賛もできる。だが、今この状況に置いて、そんな優しい嘘は冗談以外の何者にもなり得ない。
  そんなことで軽く心を動かされ、ポッポを一人あいつに立ち向かわせたら。どうなるかなど、判りきっている。
  残念ながら、それは無理だよ、ポッポ。ねぇ。と、オフィリアさんに同意を求めて彼女に視線を移す。
  と、彼女は先程までの怒気を含んだ表情から一転、真面目に思考をする表情に切り替わっていた。
「オフィリアさん?」
 僕は彼女に声をかける。
  しかし、彼女はそれを無視し、ポッポに質問をした。
「確かに、カルマ使いは覚醒すると、その能力についてふとした時に本能的に理解することがある。……今が、そうなのか?」
「はい」ポッポは、目を逸らさずに即答した。
「本当か? あいつを、抑えられるのか?」
「ちょ、ちょっと……」
 この状況で、オフィリアさんでさえ藁に縋りたい気持ちになるのは判るが……。
「いくらなんでもそれは……」
「はい。できると、思います。いえ、できます」ポッポは胸に手の平を重ね、自らを誇示するような姿勢をとった。「今なら……、もしかしたらお姉様にも……」
 オフィリアさんは、数秒ポッポの目を見つめる。
  ポッポも、それに正面から応えた。
「判った……。あいつは、お前に任せる」
「オフィリアさん! それは……!!」
「判ってるさ……。それでも信じて、賭けてみるしかねぇだろ。今あたし達は本当にギリギリの状態なんだ。それとも、お前は涼子を信じられないか?」
「霞くん」ポッポがこちらを見つめる。
 僕は、その視線から思わず目を逸らす。
「信じるとか、信じないとかじゃなくて……。そんなの……」
 危険すぎる。
  オフィリアさんがあいつらに立ち向かえる力を持っているというのは、先程の公園の攻防で判ってる。
  でも、ポッポは……。
  目を瞑ると、そこにはポッポが思うままに弄ばれていた映像がフラッシュバックした。
  僕はポッポを、守れなかった。
  あんな思いは……。大切な人を再び失うかもしれない恐怖は……。
「さっきのこと、悔やんでる?」
 ポッポがふいに声をかけてきた。
「…………」
 僕は返答を返せない。
「うん。私も」返答しなかったのに、まるで返答を返されたかのように彼女は話を続ける。「自分が痛い思いするのはもう嫌」
「じゃあ……!?」
「でもね、霞くんや、今ではお姉様も。守れる力があるのに、守ることができないのはもっと嫌」
「ポッポ……」
「さっきお姉様も言ったけど、本当に今ギリギリなんだなって、力を持った今なら判る。私がやらなきゃ、きっと皆……、死んでしまう」
 それは、そうだけど。僕は声に出そうとしたが、何故かそれは喉から先には出てこなかった。
「大地にももう、会えなくなる。日常が全て消える。そんなの、嫌……」ポッポは、手の甲で頬を拭う。「私、またいつもみたいに、三人で学校でバカみたいな話がしたい」
「…………」
「ノートもまた、取って上げるから」
 ポッポはそう言って、優しく微笑んだ。瞳は、濡れたまま。
「……ポッポ」
 ポッポの強さが、見えた気がした。
  もちろんそんなものは錯覚だろうが、彼女の生きる意志は確かに伝わってきた。死ぬつもりなんてさらさらない。皆で無事に帰れることを信じている。それは、彼女の覚悟だ。
  なら。
  僕の、覚悟はなんだ?
「……そうだよな」
 もう、逃げないこと。
  それは、どんなに低い可能性でも実現してみせる覚悟。
  それは、自分自身だけでなく仲間の覚悟を信じる覚悟。
 僕は、ポッポの顔を見つめる。
 背後のカーテンが、風ではためいた。
「ごめん」
 そして、彼女に頭を下げる。
「え……?」
 いきなりの謝罪にポッポは戸惑いの様子を一瞬見せた。
 そりゃそうだ。
  この謝罪の意味を知るのは僕だけで良い。
「そ、そんな。えっ? 全然! か、顔あげてよ……」
「信じる。僕は、ポッポを信じるよ。必ずあいつを止めてくれ。そして」
 僕は頭を上げ、そして彼女の瞳をまっすぐに見て言った。
「三人で帰ろう」

 
33.「前準備3」


「そろそろ、準備を始めましょうか」
 僕は、言った。
「あぁ。そうだな」
 オフィリアさんも立ち上がる。それに続いて、ポッポもこちらに足を向けた。
「準備って言っても……。何をするの?」
 ポッポは指を頬に当ててきょとんとした顔で尋ねてきた。
  振り返って彼女を見る。
  彼女のその瞳は、いつもよりくりくりとして大きく輝いていた。恐らく、自分の役割がはっきりと見えたからだろう。
  こういうタイプはこうなると、なんとなく安定感が増えて信頼できるから不思議だ。
「僕は……、二人みたいにあいつらに真っ向から戦えるわけじゃないからね。戦う前の下準備、って奴さ」
「あたしもあたしもー」
 オフィリアさんが気さくに言う。
「今は強さ半減だからさぁ。手元に弾沢山おいとかねぇとな」オフィリアさんがポッポを見てシニカルに微笑む。「あいつはお前に任せたからさ。あたしの役目は、ゾンビどもを涼子とカスミに近づけさせないことだ」
「盾ですね?」ポッポが思いついた、と言いたげな顔で言う。
「壁とも言うな」オフィリアさんも返す。「とにかくあいつらはよわっちぃ癖に数が多いからな。細かい弾を連射することが重要なのさ」
 なんとなく、二人がいつも通りになってきた気がする。
  不謹慎とは思いつつも、少し嬉しかった。
「霞くん、お姉様みてニヤニヤしすぎ」
「えっ!?」
 どうやら顔に出てしまっていたようだ。しかも、オフィリアさんだけ見てた訳じゃないのに……。
「この状況でかよ、天才的な変態だな。破廉恥だ、破廉恥」
 そんなことで天才とか言われたくない。
 酷い言われようだった。
  ……話題を変えよう。
「そういえばオフィリアさん」
「んー? なんだ?」
 オフィリアさんは腹部をぱしぱしと軽く叩きつつ応えた。
「最初にオフィリアさんの部屋がめちゃくちゃになってたのって……」
「あぁ、あいつらだよ。いきなりきやがってよー。あたしの部屋めっちゃめちゃにしやがって」
「あそこにあった死体は?」
「ゾンビさん」
 なるほど。なんとなく予想はついていたが、本人から聞くと少し安心する。
「今ほっとしたな? 信じてなかったのね……、お姉さん悲しい」
「いやいや。違いますってば」
 信じているから聞けることだってある。
「でも、ゾンビさんだからって、殺してしまうのはやっぱり……」
 ポッポは俯き気味に言った。
 オフィリアはそんなポッポの頭をぽんぽんと撫でて答える。
「まぁ、それが正常だよ。あたしは、もう……、ちょっと、な」
「……お姉様」
 オフィリアさんの声に、いつもと違う重みを感じた。それは、ポッポも同様だったのだろう。
「……いや。いいんだ。代わりに大事なものがあたしにはできたから」
 オフィリアさんは僕たちを交互に見て、にっこりと笑った。
 

34.「前準備4」


「大事なもの、か」
 一人歩きながらポツリと呟く。
「ちょっと、気合入っちゃったじゃんか……」
 二人の顔を思い浮かべ、一人笑みを零す。
  オフィリアさんとポッポはすでに近くにはいない。
  彼女らは、別行動に移ってもらったのだ。
  本来なら、全員が一つに固まっているほうが守りやすいのだが。そういった作戦を取る際に一つだけ気をつけなければならないことがある。
  四方八方を囲まれることである。
  敵に比べて僕たちは圧倒的に数が少ない。囲まれてしまったら、防御能力の低い場所。つまり僕という穴から攻められて一気に全滅、なんてこともあり得る。
  それは避けたい。
  だから、あえて僕は個別行動を取ることを提案した。
  ポッポは先程の話し合いの通り、河合さんを。
  オフィリアさんは正門から堂々と入ってくるゾンビ軍の壁役。
  そのどちらも担当できない僕は……。
「敵の頭を潰せ。か。無茶言うよな……」
 そう。オフィリアさんから僕に下された指令は、敵の頭……つまり、敵の司令塔を潰すことだった。
  オフィリアさんは言った。『この学校に正門以外の出入りできる場所はあるか?』
  僕は答える。『とりあえず、周りは塀に囲まれてますけど……。あいつらだったら出入りできるんじゃないですか? あとは、裏門ですね』
  オフィリアさんは、それに対して更に答える。『あいつらにそこまで細かい命令は出せねぇよ。せいぜい、目的地に向かう。か、目標をぶん殴る。くらいだろうな。……と、すると、裏門だな』
  『何がですか?』
  『奴……ネクロマンサが進入してくる場所だ。あいつは根暗の根性なし野郎だからな。正門から一緒に入ってきました。なんてことは絶対に有り得ない。するとどうだ? そんな奴が入ってこれる負のオーラが漂ってる場所なんて裏門しかねーだろ』
  確かにそれは、一理ある。敵の目を正門に向けておきつつ、裏門から進入する。何て言うのは僕らにとって一番取ってほしくない作戦だ。
  オフィリアさんは続ける。『恐らく正門にはでけぇ餌をぶら下げておいて、自分は悠々と裏門から少数を引き連れて進入。私達のバックを少数で捕らえつつ、自分は屋上辺りで見学。ってところだろうよ』
  『大きな餌?』ポッポが呟く。
  『あのライオンっ子だよ』
  『あぁ、なるほど。確かに大きな餌ですね。ほっといたら逆に食べられちゃうくらいに』ポッポは言う。その例えはあまり例えになっていなくて逆に怖い。
 『正門は、ダミーとしてライオン娘と、ゾンビの大群を置くだろう。私と涼子は、それを捌かなくちゃならない。……だから』オフィリアさんは一瞬口ごもるが、すぐに言葉を続けた。『カスミ。お前を信じたからには、お前をもう守るだけの存在とは思わない。それでいいな?』
  オフィリアさんの覇気に一瞬、どきりとしたが、僕は強く頷きを返す。
  『よし。ならお前にネクロマンサは任せる。……敵の頭を、ぶっ潰せ』
  『……はい』僕は、神妙に頷いた。『しかし、カルマ使い相手に、僕はどう対抗すればいいですか?』
  これは卑屈からの質問でなく、勝つために必要な質問だ。
  『カルマ使いってのは、能力の覚醒に応じて、身体能力も上昇する。ってことは話したな?』
  『はい』
  『だが、それも能力に応じて変わってくるんだ』オフィリアさんは、目的地に着くと、そのドアを開ける。上のプレートには倉庫室と書かれていた。ノブには鍵穴が見える。鍵はかかっていたのだろうが、オフィリアさんには鍵が掛かっていようがいまいが関係はないのだろう。室内に入りながらオフィリアさんは続ける。『もし、能力と身体能力増加に割り振れる数が10あるとする。あたしの場合は、それが大体5対5ってとこだ』
  『へぇ……』ポッポもこのことは知らなかったらしく、頬に指を添えて宙を見上げる。自分について当てはめている最中なのだろう。
  『で、あいつだが。あの死体愛好者野郎は、9対1ってとこだろうな。あまりに能力の範囲がでかすぎる』
  『9対1……』あまり具体的にイメージが掴めない僕は、ただ比率を繰り返す。
  『まぁ、掴めないのは無理ないな。あたしのこれも勘だし。まぁ、そう大きく外れちゃいないだろうよ。で、身体能力が1ってことはだ』
  『ってことは?』
  オフィリアさんは、そこでニヤリと笑う。倉庫の上部に付いた小窓から差し込む月明かりに照らされ、それはシニカルに見えた。
  『お前でも、1対1のガチ殴り合いだったら勝機はあるってことさ』
  オフィリアさんは、一通り見渡す。目ぼしいものを見つけたのか、流れる視線は何度か止まった。『あたし達は数が圧倒的に少ない。あっちは百に近い数。だが、こちらは三人だ。だから、あたし達はあっちの動きを読み、更に確実に勝つ為の流れを作らなくてはいけない』
 『はい、判ります』
  尚もオフィリアさんの視線は動く。『あいつらは涼子がカルマ使いだと言うことは知らない。だから、あっちの戦力は一人、つまりあたしだけ。全員固まって校内のどこかに隠れ、一転突破で逃げるタイミングを図っている。……と、こう考えるだろう』
  『確かに。その事実はこちらの強大な武器ですね』僕もオフィリアさんに習って、倉庫内を見渡す。
  話題の中心になっているポッポは、手頃なダンボールの上に腰をかけて、きょとんとしている。彼女も頭が悪いわけではないが、オフィリアさんと会話していると何故かそれが浮き彫りになる。
  『で、だ……。ここからが重要なんだが』オフィリアさんは倉庫内の見渡しが済んだのか、今度は目ぼしいものを取り出す作業に入った。上部の棚から無造作に床に放り投げられる物資達。ここを片付けている人がちょっと不憫になった。『カルマの力ってのはな、意識があるからこそ継続するものなんだ。例外はあるが……。まぁその例外はほとんど有り得ないから、この場合も別に考えなくていい。見た限りあいつの能力は該当しなさそうだしな』
 『成る程』僕はその辺の見分けは全く判らないが、オフィリアさんが言っているのだから恐らく当たっているのだろう。
  『だから、お前には根暗野郎の意識を断ち切ってもらう』
  意識を断ち切る……。それは。
  『……気絶、でも良いんですか?』
  『できるものなら、な。言っておくが、例え1だとしても身体能力に補正が掛かっていることは間違いないんだ。少しでも手加減したら……判るだろう?』
  『……はい』その通りだ。
  『良い子だ。奴さえ倒せば、全て終わる』オフィリアさんは、くしゃと僕の頭を撫でる。
   ふいに、頭にもう一つ手のひらの感触。
   手が伸ばされてきた方に視線を向けると、それはポッポから伸ばされた手のひらであったことが視認できた。
  『良い子だぞ。なんてね、ふふっ』とかなんとか言いながら、にやにやとオフィリアさんの真似をするポッポ。変わらずにこやかな彼女には、僕とオフィリアさんの会話の内容は伝わっていなかったのだろう。
  なんだか気恥ずかしくなったので、背中を向けて二人の手から逃れつつ僕は言う。
  『判りました……。やってみます』
  そこで、背後から聞こえるオフィリアさんの僕を呼ぶ声。
  僕は振り向く。
  振り向いた途端、彼女の手から差し出される何か。
  僕は、その何かを受け取る。
  『これは?』
  それは、鋭利に尖った小型の鉄の塊だった。
  『一応、な。特別強く力を込めてあるから、あたしの手元から離れてもその形を保っていられるだろう。護身用だ』
  僕はそれを素直に受け取り、ポケットに入れた。
  『ありがとう、ございます』
  すると、ポッポとオフィリアさんは互いに目を合わせ、僕に向かって親指を突き出した。
  『あたし達の命、預けたぞ』
  『生きて帰ろうね』
  僕も、二人の突き出された親指に親指を重ねる。
  『ああ』
 
 

35.「会戦」


 ふいに思考が停止する。
  準備はすでに終わっていた。意識が記憶の回帰の方へ集中していたからか、それほど達成感もなかった。だがしかし、それで良い。まだ何も達成してはいない。それはこれからだ。
  僕は今、裏門の見える位置で身を隠し、待機している。
  ここからでは校庭は見えない。校庭は南、しかしここは校舎の最北東。
  オフィリアさんとポッポももう準備は終わっただろうか。
  二人の顔が何となく思い浮かぶ。
「……絶対に、帰るんだ」
 こんな時、マンガだったら主人公は頭を軽く振ったりなんかして雑念だと言いながら、その映像を追い払うに違いない。
  しかし、僕はそうはしない。
  この想いがなければ、きっと今夜は乗り切れないだろう。そういう確信があった。
  右腕の服の裾を少し捲り上げる。
  十一時四十九分。
  オフィリアさんが言うに、そろそろのはず。
  先程からずっとポケットの中で握り締めたままの、尖鉄に汗が滲む。
  手が、微かに震えている。
  思わず息を呑んだ。
  目を閉じる。
「…………ふぅ」
  本当なら全てが夢であって欲しい。
  この悪夢のせいで掻いた自分の汗の気持ち悪さで目が覚めると、目の前にいつものように不法侵入してきたオフィリアさんの顔があって。
  僕が愚痴愚痴とそのことを言いながら学校の準備をして。
  オフィリアさんがそんなこと全く気にしていないようなあっけらかんとした顔で見送ってくれて。
  学校で大地やポッポとバカな話をして。
  帰る途中に寄り道をして。
  黒川のチビ助に悪態をつかれて。
  三人で赤らんだ道を歩いて。
  また明日。と言って別れて。
  そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
  そんな日々が、ずっと続けば良いと願っていた。
  でも、もう終わる。
  否。終わろうとしている。
  それは、誰かが望み訪れたものではない。
  偶然と必然が紛れ込んだ避けることのできない終点。
  理不尽の極み。
  だから、僕は戦おうとしている。
  それを理不尽だ、と言って目を背けるのは、逃げることと同じ。
  自分で壊すことと同義。
  そんなことは許されない。
  僕はまだ望んでいる。
  あたりまえな世界を、欲している。
  だから、現実を見据えなければ。
  これは夢なんかではない。
  まぎれもない現実。真実。
「…………やるんだ」
 そして、両の眼をゆっくりと開く。
  目の前の廊下の闇が、若干緩和されている気がした。
  左手側から背後に伸びる廊下を、身を乗り出して覗くと、裏門の扉の輪郭がはっきりと見えた。
  腕時計を見る。
  いつの間にか十分が経過していた。
  十一時五十九分。
  大きく息を吐いて、尖鉄を再び強く握る。
  もう手は震えていなかった。
  身体の方も覚悟が決まったらしい。
「来るならこいよ……、それとも来ないのか?」
 僕達のことなんか忘れて、どこか他の街にでも行ったか?
  本当ならそれが一番……。
  そんな希望的観測を頭の中で描いていた、
  瞬間だった。
  校舎が揺れた。
  あまりの空気の振動に。
  振動源へ、思わず顔を向ける。
  顔を向けた方向は、南側。校庭があるはずの場所だった。
 

digression side/A 01.「vivid black」


 鳩村涼子は壁に身を預けて一息息を吐く。
「ふぅ……、緊張しちゃうなぁ……」
  正確に言えば、つい一時程前に霞が割った保健室の窓から五メートル程左にスライドしたところで九十度直角に北へ曲がっている壁。保健室の窓側ではない方の辺に背を預けている。
  保健室の窓は南向き――、つまり正門に向いている。正門を見張り、もしもの時に即刻行動に移すにはここと、この反対側、つまり最南東の角が適切だろう。とのオフィリアの助言を受け、鳩村涼子は一人ここにいる。オフィリアは反対側にいるのだろう。
「お姉様は大丈夫かな……? 霞くんは大丈夫かな……。二人とも準備があるって言ってたし、もう終わったのかな。あぁ、心配心配」
 一人だからだろう。普段から口数が多い彼女は、ぼそぼそと誰にとも知れず独り言を口にし始める。
「段々暗くなってきたなぁ。ここからじゃ時計は丁度見えないのよね……。腕時計なんかして来て無いし。携帯も家に置いてきちゃったからなぁ。失敗失敗、うーん、まさかこんなことになるとは思わなかったもんね……。まぁ、動き回るんだったら携帯とか財布とか無いほうが良かったけど……。うん、結果論バンザイ」
 独り言故に、連続して言葉が多くなるのに対して、表情は動かない。それはまるで、テレビ番組の合間に流れるニュース番組のアナウンサーのように淡々とした様子で、夜の暗闇と相まってある意味不気味ですらある。
  彼女本人はそんなことを気にした様子もなく、更に続ける。
「携帯持ってきてても、意味なかったしね。お姉様が警察に連絡する必要なんかないって言ってたし」
 涼子は先程三人で廊下を闊歩している時に言っていた台詞を思い出していた。
「警察なんて言っても、所詮普通の人間だろ? 逆に動きづらいし、死体が多くなって根暗マンに手土産作ることになっちまう。それに、こんな異能を一般に知られる訳には行かないからな。……とかなんとか言ってたっけ、お姉様」
 涼子は一人自分の口から出た言葉に納得したように頷く。乗ってきたのか、段々と流暢になってきた。言葉は更に続く。しかし、視線は変わらず正門に向けられたまま。基本的に真面目な人間だった。
「うんうん。私の記憶力もまだまだ捨てたもんじゃないなぁ。……それにしても二人とも本当に大丈夫かな。なんか、今一番安定してるのって私かも……。うーん、心配のあまり三点リーダも自然に多くなっちゃうってもんだよね。様子見に行きたいけど、お姉様から動くなって言われてるしなぁ。何時まで待ってればいいんだろ。……え? まさか、朝まで?」
 両手を頬に当てる。
「やっばいよぉ、それ。肌が荒れちゃうって……。いやぁ、酷い。うら若き乙女にそれは酷……。こない方が絶対的に良いのは間違いないけど、どうせ来るんだったら早く来てほしいかも……。あ、うーん。でも……」
 ふと左手にガーゼの感触を思い出す。
「荒れるとか荒れないとか以前にこれは酷すぎだよね……。む、なんかあのシーン思い出せば思い出すほどむかむかしてきちゃったぞ。……うん、一発二発お返ししても罰はないよね。うん。ないない。絶対ない」
 左手を頬から離し、宙でぐっと手を握って拳を作る。
「よーし……、そうと決まったら早く来なさいよね。まだ完全に理解した訳じゃないけど、なんとなく負ける気はしないもんね。余裕綽々で来たところを華麗に返り討ちにしてあげるんだから……!」
 口を動かしながらも、ここを見張り続けて何分経っただろうか。鳩村涼子はそんなことを考えていた。
「お姉様も言ってたけど、これだけ時間が稼げたことが奇跡に近いんだもんね。まぁ、早くこられるよりは幸せだったかな。もうあいつらも私達が行きそうなところは大体調べただろうし。多分来るときはここに焦点を定めて一気に来るんだろうなぁ……。あー、ちょっと緊張」
 ここに移動する直前に見た時計の針を思い出す。校舎の上部に設置された大時計は、確か十一時三十分を指していた。
「……大体今は、五十分過ぎくらいかな」
 多少の誤差はあっても、おおよそその辺りで間違いはないはず。オフィリアも、大体今の時間近辺に現れると予想していた。現れるとしたら、だが。
「うぅ、緊張興奮不安が三位一体合体ロボって感じ。霞くんとお姉様の手前強気で言っちゃったけど、カルマ開放したらどうなっちゃうか本当は不安でしょうがなかったり……。ハズレではないと思うんだけど……。根暗マンみたいに周りに迷惑かける系だったらどうしよ……。お姉様は近隣の一般の人の心配はしなくても良いって言ってたけど。なんか結界がどうたらこうたらって……。うーん、それは無いと思うんだけどなー」
 と、不安を一応口に出して見るものの、それは『なんとなく』のレベルであり、実のところ涼子本人は自身の能力について朧気ながらも輪郭ははっきりと捉えていた。
「まだかな……。何か段々緊張疲れで眠くなってきたり……。ふぁ」
 両手を天に向けて伸ばしながら、口元を大きく上げる。
 筋肉の構造で、両目も同時に瞑る。
  その一瞬が丁度堺だった。
  涼子の動きが停止する。
「……え?」
 雰囲気が、変化した。
  具体的にどう変わったか、と問われれば答えることはできないが、周囲を取り巻く空気が剣呑さを帯びたことは確実に間違いは無かった。
  棘々しくもどろどろとした物が身体中に纏わり付く感覚。
「なっ……にこれ、気持ち悪い」
 胃が底から押し上げられる錯覚に囚われる。
  錯覚だとは理解していても、解除することができない。
「まさか……」
 伸ばした腕を急いで戻し、壁に付ける。そのままそっと正門を覗き見た。
 心臓が高鳴る。
「……きたぁ……!!」
  涼子の視界に移ったものは、正門と校庭の丁度境界線上。その上で蠢く大きな一つの影。
  否、それは一つの影ではない。隙間なく敷き詰められたモノ達が月光で映し出された結果、連続した一つの影を作っているのだ。
  行儀良く、正門から溢れるように進入してくる影達。
  それと正対して、正門横の石壁の上に軽やかに飛び乗り進入を図る小さな影が一つ。
「……間違いない」
 それは間違う余地すらなく、ゾンビ軍と河合莉音だった。
 

side/A 02.


 頬を冷たい汗が伝う。
  先程までの独り言は今はもうない。
  一変して、鳩村涼子は剣呑とした心持になっていた。
  実を言えば、今の今までそんなに危機感は持っていなかったというのが事実だ。というよりも、やはり現実としてはっきりと認識できていなかったという部分が大きい。
  先刻公園で殴打されたのにも関わらず、だ。
  それさえもどこか遠い夢の様な薄れた記憶のような気がしてならない。
  カルマによる治癒能力の速さが、逆にそれに拍車をかけてしまったと言っても過言ではないのだろう。
「…………はぁっ」
 大きな息を一つ。
  心臓の鼓動がやけに大きい。
  まるで、身体の中で何か得体の知れないものが暴れて始めたような。
  壁についていない方の自由な手で、胸元を服ごと握り締める。
  特に物理的に効果があるとは鳩村自身も思ってはいなかったが、抑え付けてでもいないと今にも破裂してしまいそうな錯覚に襲われているという理由からだ。
「身体が、熱い」
  鳩村はようやく、この一連の出来事が現実であると、認識を始める。
  自身の変容も含めて。
  この特別な力も、この特別な夜が終われば消えて無くなるものとどこかで思っていた。
  この夜さえ終われば、全ては綺麗に霧散するのだと。
  きっと、そうではないのだろう。
  この力とは、一生付き合っていかなくてはならない。そんな予感がする。否、確信に近い。
 鳩村は、そんなことを考えつつ、服を握り締めながらその手を下方へ無理やり引っ張る。
  胸元が外気に晒される。
  汗と冷たい夜風のせいで、本来なら寒いとすら感じるはずなのに身体は妙に火照って熱かった。
  本当だったら上着の裾を大胆に捲くり上げて、風を大きく中に招き入れる動作でもしたい。
  けれど、そんなことをすれば否応無く音が鳴るだろう。
  それは、どうしてかしてはいけないことだと判断する。
  音を立てては、いけない。
  何度と無く漏れるため息にさえもいつの間にか鳩村は気を使っていた。
  何をしても心臓の暴動は収まらない。
  身体を動かして誤魔化したい衝動に襲われる。
  焦りやじれったさの感情に似ていた。
  これはなんだろう。
  緊張、だろうか。
  それとも……。
「まだ、かな」
 音に気をつけつつ、自身の耳に届く程度の小声で鳩村は呟く。
  校舎の角から校庭側を覗き見る。
  その視線の中心は、黒い影ではなく、その先。
  反対側の校舎の影だった。
  オフィリアの言葉を思い出す。『奴らが見えても、絶対に一人で飛び出すな』
  視線が無意識にちらりと動くが、それを意識して即刻遠く闇の中に戻す涼子。
  どうしても河合莉音が気になってしまうが、今はオフィリアの言葉を厳守しなくてはいけない。
  更に再生する。『あたしが先に出る。その姿を確認次第お前もでろ。涼子』
  影の進行は、尚も止まらず進む。その歩みは遅かったが、しかし確実に校舎の入り口に近づいている。河合もそれに倣っているようだ。
  それは一応は警戒をしているのか、それとも遊んでいるのか。
  どちらにせよ、遅い進軍はありがたい。
  しかし、焦れる。
  『校門付近じゃ、ダメだ。引き返せないところまで、おびきよせるんだ』
  まだか、まだか。
  万が一にでも校舎に入ってしまったら、霞が危ない。
  それだけは、涼子にとっては何よりも遭ってはいけない事だった。
  だから焦燥する。
  しかし、それは涼子だけではなくオフィリアにとっても同じはず。まだ短い時間しか彼女とは付き合っていないが、彼女の霞に対する気持ちには痛い程気が付いていた。
  それは、小さく仄かな思い。
  それだからこそ、涼子にしか気が付けない想い。
  自身とは違うベクトルだとしても、彼女の霞への想いは本物なのだろう。
  故に、焦がれても涼子はオフィリアを待つ。
  彼女を信じて。
  『勝つために』
  ふいに、視線の先に変化が訪れた。
  闇の中に、更に濃い闇が現れる。
  それは、視認から一拍置いて速度を急上昇させ校庭へと向かっていた。
  それを認識した瞬間、涼子の足は動いていた。
  校庭に向かって。
  あの日々に帰るために。
  守るために、愛しい彼を。
 

side/A 03
 

  影に向かって、上部から断罪の斧が振りかざされる。
  凄まじい衝撃と音が空気を割る。
  涼子は一瞬だけ怯む様子を見せたが、それは自身に向かって放たれたものではないと一瞬で判断。即座に校庭の中央へ向かう足へ戻した。
  走りながら、観察を続ける。
  注意深く。
  振り下ろされたものは、実際には斧ではない。だが、涼子にはそう見えた。
  斧は影を二分する。丁度、影の中の異質な影だけを切り取るように。
  しかし、斧の横幅は厚い。丁度、境界線にいた影は無残にも押しつぶされ、砂とそう変わりない存在になってしまった。
  校庭に雄々と突き刺さった斧。それより東側の影は、その存在を恐れ、更に東側へ移動する。
  そんな中、黒い影の中から異質な影のみが、機敏に飛び出す。西へ。
  丁度、人間一人分の大きさだった。
 
  空中に浮き、身体を回転させながら、影は今の衝撃の正体を知ろうとそちらに眼を向ける。
  だが、そこには既に何も無かった。
  校庭に刻まれた細長い痕と、その周りに散らばる何かだったものの欠片のみしか残ってはいない。
  切り取られた影は、地面に着地し、単独でも再び進軍を始めようと前方へ眼を向ける。
  普通ならばそのまま何事もなかったかのように進めば良かったのだが。
  しかし、影は足を止めた。
  校舎と自身との間に、同じような影が見えたからだ。
  あれは、自らと共にこの校庭に侵入した影の一部ではない。
  先程の衝撃が来た瞬間判ってはいたが。
  影は確信し、獲物を見つけたと口を嬉々と三日月のように歪めた。
「こんなところにいたのね、全く」
 おどけた様子で、校舎側に立つ影に話かける。
  しかし、その足取りは慎重だった。
  先程の巨大な物体。あれは間違い無く自らと同じ能力だろう。
  カルマ。
  あの力を見せられたのが、慎重にならざるを得ない要因だった。
  影は影に向かって尚も話かける。
「……ねぇ貴女、さっき公園で私にあつーいキックを喰らわせてくれた人よね」
 言いつつ、一歩近づく。
  月の明かりは微弱だった。それに、先程の衝撃で砂塵も舞い上がっている。もう少し近づかなければ何も見えない。
「まだ痛いのよぉ。あ、ほっぺがじゃなくて心がね。なんか悔しくって」
 目算する。
  大体あと二十メートルと言ったところだろうか。
  まだ、一足飛びで近づけない。
「ねぇねぇ。何か喋ったらどうなの? 私が公園でぶったたきまくったお嬢さんじゃあるまいし、顔が壊れちゃって話せないって訳でもないんでしょう?」
 もう少し。
  先程見た能力。あれは、多分遠距離でも発動できるタイプのものだろう。公園でも見た。砂を鋭利な針に変える能力。否――、逃がした三人の中でカルマ持ちはあの金色の女一人だけ。つまり、先程の斧も、公園の砂もあの女一人の能力としたら。
  多分、物質を変化させる能力――だろう。
  だが、公園でも確認している通り、あれは発動するまで数秒のタイムラグがある。
  あれだけの隙。
  自身の間合いに入れば、問題は無い。
  10メートル前後まで詰められれば。
「……おーいってば。私の話聞こえてますか? どぅーゆーあんだすたん?」
 耳に手を当てながら、ふざけた様子で歩みを続ける。
  静寂に包まれた闇の中で、その声だけが場違いのように響く。
 あと数歩。
「なんか私だけ話してて、馬鹿みたい」
 とん、と今までと打って変わって軽快な様子で一歩を踏み出す。まるで、助走をつけるように。
  間合いに入った。
  瞬時に足に力を込める。
  同時に片手を開いて、手を変容。
 あの女さえやれば、全ては事も無く終わる。
  ――勝った。
「ねぇ!?」


side/A 04


 声を合図に、飛びかかる。
  否、飛びかかろうとした。
  しかし、それは。
「――え?」
 ぼとり、と。
 突如目の前に落ちてきた、人間の腕の様な物体に気を取られ、叶わないものと化した。
  予期せぬものに、つい足を止める。
  右方へ慌てて眼を向けた。
  自分と共に進軍した影達は、既に校舎へ侵入しているものだと思っていた。
  邪魔もなく。
  だって、その邪魔の原因は今自分が相手にしているものだけだと思っていたから。
  しかし、影達は全く先程の位置から校舎へ近づいていなかった。
  むしろ、後退している様子にさえも見える。
  何故。
  影と校舎の間を見る。
  そこに大きな影と相対する、小さな影が一つ。
  その影から放たれる、無数の針のような物体。
  それが、彼らの進軍を止めていた。
「……嘘でしょ」
 思わず言葉が漏れる。
  それは、歩みを進めるための戯言ではなく、図らず漏れた言葉だった。
  あの針。私はあれを知っている。
  この校舎に潜む、たった一人のはずのカルマ使いの能力。
「……なら」
 ならば。
  自分の歩みを止める、この影は、一体誰の影なのか。
「あ……」
 気づき、急いで視線を前方に戻す。
  だが、それは既に遅すぎた。
  気づけば、先程の影は。
  いつの間にか、目の前に迫っていた。
  右方向から、空気を切り裂くような蹴りが迫る。
「なっ――!!」
 広げた片手を、戻す。
  だが遅い。
  その手による防御は間に合わず、右の頬に強い衝撃。
  視界がぶれた。
 そのまま、右方向へ流れるように飛ばされる。
  肩から地面に接触。
  幾度かバウンドして、校庭を横に切るように滑る。
「あ……がっ」
 訳が判らない。
  理解が追いつかない。
  どうして私は蹴り飛ばされているのだろう。
  立ち上がり、体勢を立て直そうとする。
  が、脳が揺れているのか、思ったように立ち上がれない。
「あれあれ……」
 今度は、前方の影から声が放たれた。
  ゆらゆらと揺れる視界の中、辛うじて立ち上がる。
  今ので口の中が切れたのだろう。唇の端から溢れるように血が零れ落ちた。
「どうしたのかな」
 言いつつ、影は距離を詰めてくる。
  この声。
  あの金色の女とも、ひ弱そうな青年のものとも違う。
  ついに思い当たる。
  これは。
「……お前……!」
「お前だなんて、怖ーい。……悪いけど、私の仕返しこんなものじゃないから。ね、河合莉音さん」
 公園で頬を思うまま殴り倒した女。
  到底カルマ使いとは思えないほどの、弱者。
  普通の人間だった、はずの。
「お前は……」
「だからぁ。……お前じゃないってば。私の名前は、鳩村涼子。よ」


side/A 05


  蹴りを放ち、背後に戦争のような戦いを背負いながら腰に手を当てる女。
 涼子は悠然と自らの名を名乗って見せた。
  まるで、公園で河合莉音がそうしてみせたように。
「公園ではよくも、しっちゃかめっちゃかにしてくれたわね。あの後頬が腫れて大変だったのよ」
 そう言って涼子は、前髪を払う。
  見えた頬は、まだ治療用であろうガーゼこそ貼ってあるものの最早腫れた様子は見受けられない。
「女の子の顔を殴るなんて……。もう本当信じられない」
「……あんただって。……私の顔蹴り飛ばしてくれたじゃない。たった今」
 口内に溜まった血の塊を砂地に吐き出しながら莉音は言う。
「あー……。うん。まぁ、それはそれ、これはこれよね」
「意味が分からないわ」
 莉音は口から顎へ一直線に垂れた血線を、右の手の甲で拭う。更にそれを宙へ切るように払い飛ばした。
  足元は既に確かなものへと戻っている。
「……ま、やっぱり一撃くらいじゃ無理よね」
 その様子を見て、涼子が呟く。
  回復が早い。
  常人ならば首が変な方向に曲がっていても可笑しくないくらいの勢いで蹴り飛ばしたはずだ。
  やはり、この河合莉音というカルマ使いは、肉体強化に比重が偏っている能力者らしい。
「正直」
「え?」
 思考していたからか、莉音の予期せぬ会話の意思に、間の抜けた返事が飛び出た。
「……正直、今のは焦ったわ」
「え、本当?」
 自分でもいい感じに入ったとは思ったが、本人から聞くとよりリアルだった。
「ええ、本当よ。……あんた、カルマ使いだったのね」
「まぁ、ね」
 返事を返す。
  涼子の目的は足止めである。会話で時間が潰せるのならばそれに越した事は無い。
「成る程、納得。妙に丈夫にできてるとは思ったけど。これはビックリ。……でもそれにしては、公園で思うままに殴られてたけど」
「えーっと、それは」
「もしかして、肉体強化がほぼないとか? それはないか。うん、さっきの蹴りからしてそれはないわね。そうね……本格的な戦いになって、あの男を巻き込みたくなかったから、でしょ。優しいのね、貴女」
 なんだか一人で勝手にヒートアップした上、勘違いしている。
 別にそういう訳でもなかった……。というか、そうできるものなら良かったのだが。あの時は、本当に反撃ができなかっただけなのだが。
「……えっと、あのね」
「ん」
「別にそういう訳じゃなかったのよ」
 しかし、涼子は根が正直ものなので話してしまう。
  というより、嘘を吐き続ける自信がなかった、というのが本音だが。
  だが、自身を理解しているその判断は悪くは無いといえる。
「……どういうこと?」
「お」
 会話に乗ってきた。
  これで時間が潰せれば僥倖である。
「逃げた後に覚醒した。なんていうご都合展開な訳?」
「ううん、そういうのでもなくて」
「じゃあ、なんなのよ」
「覚醒はしてたけど、理解はできてなかった。って感じかな。あの公園の時点では」
 莉音は眼を大きく開いて、一度ぱちりと瞬きをする。
  なんだかオーバーな反応の気がしないでもないが、それだけ私がカルマ使いだとは思っていなかったのだろう。
「……あぁ。あは、そういうわけ。……それもそれでご都合じゃない」
「そ、そんなことないわよ! あの時は本当に殺されるかと思ったんだから」
「……ふふ。まぁ、妙に丈夫な娘だとは思ったけどね。……あと」
「あと?」
「――今からは殺されると思ってないわけ?」
 その一言を堺に瞬時に剣呑な空気が蘇る。
  やはり、会話だけでやり過ごそうなんて考えはチョコレート並に甘かったらしい。
  一瞬でも安心してた自分がバカみたいだった。
  彼女を中心に飛んでくる空気が刺さるように痛い。物理的に効果があるわけでもないのに。
「私、こんなところでちんたらしてる暇はないの。お喋りは割と好きだけどね」
「……そっか、でも、貴女に私は越せないわ」
「すごい自信ね。どこからそんな言葉が沸いてくるのかしら。それとも、殴ったせいで頭に変な虫でも湧いた?」
 その言葉に。
  涼子は微笑んだ。
  シニカルに。背後で必死にあの数を止めているあの人のように。
「変な虫が湧いてるのは貴女のほうでしょう。河合莉音」
「……なんですって?」
「気が付いてないの? それとも操作されているからかしら。どちらにせよ哀れね」一呼吸置いて、更に言葉を綴る。「……それと、殴ってくれたことにはある意味感謝するわ。そのお蔭で自分の能力に気が付けたのだから」
「え?」
 涼子は言いつつ、自分の左腕を自らの口の上へ翳すように挙げた。
「……まさか」
 今まで暗闇で気が付いていなかったが、何時の間に切ったのかその左腕、否。その左手首からは血が溢れ出ている。
  それは手を、指を伝って涼子の口内へ落ちた。
  ごくりと、涼子の喉が鳴る。
「貴女」
 やがて、涼子は充分摂取したとでも言いたげに翳すのを止め、血が溢れる手首を真っ赤に濡れそぼった下で拭うように舐めた。
  そして、手にこびり付いた手を振り払う。
  広げるようにこちらに向けた左腕。その手首には、すでになんの傷も残っていなかった。
 そして涼子は言う。
「そうよ。貴女に殴られて口の中に血が充満しちゃってね。それ、私気持ち悪かったからその都度吐き出してたんだけど、どうにも味……っていうか、多少は残っちゃうみたいね。その残った血が偶然に喉の奥に入ったのよ。それで、理解できちゃった。って訳」
 一気に言い切ってから、涼子は頬のガーゼを乱暴に剥がす。
 そこは、本当に殴られたのかと疑いたくなるほど綺麗になっていた。
  月光に涼子の顔が照らされる。
  瞳が、徐々に青く澄み渡った色に変貌していく。その様を、莉音はじっと見つめていた。
「……右が若干濃いわね。近接戦闘系かしら?」
「……さぁ。私この能力本気で発動したことないから判らないわ。貴女のように、快楽殺人に使っているわけでもないしね」
 涼子はとぼけてみせる。
「言ったわね」
「言ったわよ」
  言いながら、莉音は先程のような開いた姿勢を取った。その指先は既に完成している。
  涼子も、合わせる様に僅かに足を開いた。
  スカートなので余り足は開きたくないのだが、この際そんなことは言っていられない。
  互いの青い眼を見詰め合う。
  距離は充分詰まっている。
  隙は無い。
  莉音も飛び掛ってこないと言うことは、隙を探しているのだろう。間違いなく警戒している。この状態こそが、涼子が莉音に対抗できるという証拠でもあった。
 できる。大丈夫。
  自分に言い聞かせる。
  後は、きっかけ。
 予期せず、
  涼子の背後から腐敗した腕が両者の間に落下。
  瞬間、二人の足元の砂が、爆発するように背後へ弾けた。
 

side/A 06


 二人を直線で結んだ中間点より僅かに西寄り。
  つまり、河合莉音の元の位置に近い場所で二人は相対した。
  跳躍時に後方へ弾けた砂の量は、遥かに河合莉音の方が多かった。
  この二つの要素から推測できる答え。
  それは、脚力に置いては鳩村涼子の方が遥かに優良であるという答えである。
「ブレーキブレーキ」
 脚力が強いということは、最高速から一気に停止する能力も涼子の方が高いのは自明の理である。
  涼子は最高速から急停止。
  体勢を整える。
  先制は涼子だった。
「――や……ぁっ!!」
 選択した攻撃は、先程と同じ。
  体勢を整えた涼子は左足を振り上げる。
  軌道もほぼ同じ。
  しかし、先程とは違う点が一つ。
  空を切り裂く細く白い足。それが半円を描く速度は、先刻の蹴りと天と地ほどの差もあった。
「あ……っ?」
 意図せず放った本人の口から、驚いたような呆けたような声が出た。
  緩急。
  喧嘩はおろか、戦闘経験さえない涼子。
  そんな涼子が戦闘に際して細かい駆け引きなどできるはずもない。
  ただ愚直に先程成功した攻撃を繰り返しただけ。
  それが、緩急という高度な戦闘技術を含む結果になったのは、カルマ能力の制限……ルールに寄るものだった。
  涼子がカルマ使いだと判明した後、オフィリアは涼子にあらゆることを語った。
  その一つ、言っていた事を涼子はふいに思い出す。
 
  カルマ使い。覚醒に応じて能力の付与に加えて、身体能力の向上及び肉体強化という変異。
  覚醒はある日突然訪れる。
  最初の覚醒は特に条件は必要ではないが、次からの故意の覚醒には覚醒するための条件が必要となる。
  鳩村涼子は自らの血を一定量摂取すること。
  河合莉音は緊張状態による気分の高揚。と、いった具合にだ。
  条件は個人によって異なってくる。一概には言えないが、ある程度は能力の強さ、重さに寄って変わると言われている。
  更に、能力にどれだけ「近づいて」いるか、にも関わっていると言われる。
  「喰われる」とも言われる。
  能力を欲望の赴くまま行使した結果、歯止めが効かなくなる状態のことをそう表現するらしい。
  さておき、覚醒をするメリットについてであるが、それには能力の発動が可能になる。という事と、身体能力が大幅に上昇するといったメリットがある。
  未覚醒状態では真人間。なんという訳ではないが、覚醒状態とそうでない状態では天と地程の差がある。
 
  ――確か、そんなことを言っていた。
  涼子は先程条件を見たし、無事覚醒を終えた。
  威力の差はそのためか。
  成る程。妙に身体が軽いと思った。
  思考が回帰から現実の方へシフトする。
  視界に迷彩が戻る。
  思っていたより足は動いていなかった。
  むしろ……止まっているような。
「……同じ攻撃が通用すると思ってるわけ?」
 錯覚、なんて訳は無い。
  九十度に畳まれた右腕が、蹴りの進行を見事に留めている。
  勢いは完全に殺されていた。
  結果、無防備な状態で涼子は硬直する。
  時間で言えば、数コンマ程度。
  しかし、この場に置いてその隙は致命的だとさえいえる。
  一瞬の時間の停止。
「さて、用意はいいかしら?」
  俯き、そう呟く莉音の眼が怪しく光るのを、涼子は確かに見た。
  公園の映像が涼子の脳裏にフラッシュバックする。
  冷たい汗が吹き出るのを感じた。
  何故か頬に鋭い痛みが蘇る。幻痛だとは判っている。それでも、恐怖を思い出すのには充分だった。
  反射レベルで、頬を中心に顔を覆う。
  それによって視界は閉ざされてしまうが、一度恐怖に支配された心ではその防御行動が精一杯だった。
  また頬を殴られるのは、怖い……。
「嫌……っ!」
  考える事ができるのは。
  それだけ、だった。
「あはっ、バカな娘……!」
 その言葉が聞こえたかどうかの際。
  突き抜けるような何かが、腹部に深く突き刺さる感覚を、涼子は覚えていた。
 

36.「霞の戦い」


 今しがた聞こえたまるで爆発したかのような強音は、すでに反響もなく霧散していた。
「なんだ……? 今の」
 現在僕が立っている場所から、音がした場所。校庭を確認するすべはない。
  それに。
  反対側から、連続する鈍い音。
「そんなことをしている余裕なんて、ないってか」
 丁度僕がずっと見ていた、裏門への鉄製の扉。音の発生源はまさにそこだった。
  壁から顔を半分程出し、そちら側を伺い見る。
  こちら側に向かって、扉が何箇所か凹んでいた。
「あれ鉄だぞ……。なんて力だよ」
 あんなもので、普通の身体の僕が殴られでもしたら。即死は免れないだろうな。
  ぼんやりとそんなことを考える。
  不思議なものだ。
  先程よりもよっぽど危機的な状況に直面しているというのに。
  目の前に迫ると、逆に冷静になるというのはどうやら本当だったらしい。
  その間も止むことなく打撃音は響く。
  扉自体が凹み、枠の部分から外が覗き見え始めている。
  そこから覗く、幾つもの灰色に濁った瞳。
  ふと、その中の一つと、目が合った。
「――う……ぐっ」
 急いで姿勢を戻す。否、壁に隠れた。
  あの目は、ダメだ。
  あれは、死。まさに、死そのもの。
  負けずに睨み返す。とか、そういうレベルじゃない。目が合えば確実に飲み込まれる。そういった類の視線だった。
  せり上がった溜飲を無理矢理飲み込み、呼吸を落ち着かせる。
「……ちょっと、舐めてたかもな」
 冷静になったことによって失いつつあった警戒心を、再び取り戻す。
  大丈夫。やれる。
 扉が揺れる。外と内を繋ぐ空間幅が更に大きくなった。鍵部分が丸見えになっている。しかも大分こちら側にひしゃげた状態で。
 もう、数分も耐えられないだろう。
  ……まぁ。
「それでいいんだけどな」
 扉がこちら側に揺れる。それに従って、その裏に立ちふさがるように聳える、重なった机もまた、揺れた。
  机が揺れるに従って、机の中に仕込まれた薄力粉が零れ空気中に舞い散る。
「家庭クラブの皆、ごめん」
 薄力粉は、家庭科室の棚に置かれていた「無断使用禁止。家庭クラブ」と仰々しく書かれたダンボールから無断借用してきたものだった。
  普段なら僕はそんなことはしないのだが。この状況だ。仕方がない。
「……そろそろかな」
 扉はもうほとんど壊れていた。
  最後の一押しとばかりに、扉への打撃音が更に凶悪になる。
  こちら側に半開きのようになった扉に押され、それに密着するように設置してあった机の壁もまた、こちらに傾く。
  天井近くまで詰まれた、机の壁の一番上の列。その辺りはもう危なげに揺れ、いつ落ちても不思議ではない。
  学校の机ほどバランスの悪い机は無いと思う。
  思いがけず覗き見る目に、水滴が入る。
  汗か。
  垂れて来るまで汗を掻いていると気づかなかった。
  集中している。いい状態だ。
  汗を流すため、両の瞼を一度だけ瞬かせる。
  その瞬間。
  派手に大きな金属音を立て、牙城が崩壊した。
  扉が無様な音を立ててリノリウムの床を転がる。
  それに釣られ、机の壁もまた、崩れた。
  全ての机に平等に仕込んだ薄力粉が、宙に舞う。
  視界が白ける。
  そんなことは判っている。僕が見たのは更にその奥。
  僕の視界に移ったゾンビ郡は、地面に散らばる邪魔な机と、いきなり舞い上がった粉塵に戸惑って動きを止めていた。
「悪いな。成仏してくれ」
 僕は、尖鉄が入っているのと反対側のポケットから、小さな金属を取り出す。
「あと、先生。ごめん」
 それは、担任の先生が良く使っている、彼のお気に入りのジッポライターだった。
  それに火をつけ、勢い良く、投げる。
  白く粉が舞う、扉の近辺へ向かって。
  そして同時に、走る。
  裏門とは反対側。校庭の方へ。
  数歩程走った後、背後から凄まじい爆発音。その後に、騒がしく耳を揺さぶる金属音。
  聞こえた瞬間、床に伏せ、首だけで背後を振り返った。
「…………」
 曲がり角になっていて扉の方の状況はわからないが、ここから見える、丁度曲がり角の辺りの廊下。そこが、丸焦げになっていた。
「凄い威力だな……」
 角の周辺には、机の残骸はもちろん。恐らく先頭近辺にいた集団だろうゾンビ郡の部品も、転がっていた。無論、焦げた状態で。
  その様子は、無残だとしか、表現しようが無かった。
「……」
 そして。何も、言えなかった。
  そして、そこに無念にも同情にも似た感情だけを残して、僕は再び校舎の中を走り出した。
 

digression side/B 01 「rebirth a scar」


「やっぱ、本命はここだと目星つけてやがったか……。余裕のつもりだかなんだか知らねぇが、舐められてるみたいだな」
 校舎の角の陰に身を隠す彼女は、正門の周辺に人の集団と思しき影を見つけた瞬間、一人ごちた。
「こんなに間を空けるなんておかしいと思ってたんだよ」
 あの集団はまだこちらに入ってくる気配はない。
  ここまで時間を開けたのだ、恐らく……。
  時計を一瞥する。二十三時五十四分。
  丁度、午前零時辺りにでも攻め入ってくる気なのだろう。何を意識しているのかは知らないが、どこまでもふざけた連中だ。
  まぁ、良い。
  あちらがそのつもりならば、こちらもその時間を有効活用するまでだ。彼女は、冷笑しつつそう考える。
「とりあえず……。結界、だな」
 そう言いつつ、空虚な空を眺める彼女。
  彼女が上着のポケットに手を入れた瞬間だったろうか。彼女は異変に気がついた。
「……すでに、掛かっている」
 この辺り一帯の空気が変わっていた。
「……何故だ?」
 彼女は、数秒考えるが、やがてそれを止める。
「まぁ良い。どちらにせよ手間が省けたしな……。これなら学校近辺の奴らも、どんなに騒いでも気がつきはしないだろう」
 彼女は言いつつ、ポケットに入れた手を取り出した。
  時計を見る。
  零時。
  視認した瞬間、正門に目を移す。
「案の上、か」
 影の集団が、校舎に向かって真っ直ぐに突き進んでこようと歩を進めていた。
  それを確認。直後、オフィリアは校庭中央へ向かって躍り出た。
  常人とは異なる速さ。
  間もなく、校舎と影を遮るようにオフィリアは校庭の中央へ到着した。
「とりあえずは、分散させるのが、あたしの仕事だから……なぁッ!!」
 怒号一閃。
  彼女は両手に持った陸上用の鉄球、それと腕に二つのハードルをかける。
「変化」
 闇にまるでそぐわない、凛とした声で彼女は呟く。
  その声と同時に、四つの競技用具は変貌。
  彼女を上空へ押し上げる、長い金属の棒へと変化した。
 更に、彼女はその棒の先端を握ったまま、影の集団へと体重を傾ける。
  長い棒が、校舎側へ浮き上がる。
  長い故に、遠心力が発生。彼女の腕力も相まって、それは円を描く。
  しかし、強い遠心力を発生するためには、地面に刺さっていた先端側に更に重量が必要だった。
「……eins」
 彼女は、それを判断するや否や更に呟く。
  流暢に出たその言葉は、この国のものではない。
  それと同時に物質は淡く発光しながら更に形を変える。
  まるで、それは宙を自在に踊る蛍のようにも見えた。
「――破!!」
 形を斧のように変え、遠心力を更に加えたそれを一回転。その後に、影の中へと振り落とした。
  斧が突き刺さった場所は、影の端。
  しかし、それは彼女の狙い通りだった。
  影の中でも、異質な影。彼女はその一点だけに狙いをすまし、振り落としたのだ。
  しかし影は、それを回避。斧はその周辺に存在した影を消し飛ばすが、異質な影だけは反対の方角へと飛び、かわした。
  あわよくば、これで消えてほしかった、が。
  一応作戦通りとは言え、狙いが外れた彼女は憎らしげに舌を鳴らす。
「分解」
 しかし、仕方ないと一瞬で判断。
  呟いた言葉は、分解。
 言葉と並び、斧を形成していたそれぞれの物質が元の形に戻る。
  彼女はそれを空中で捕捉。
「悪いな、涼子。……あたしはあたしの役割を立派に演じて見せるさ」
 自分の指示通り、こちらに向かって走ってきているはずの鳩村涼子に向かって、言う。
  そして、捕捉した鉄球を、更に変化させた。
「穿て」
 鉄球から伸びた数本の鉄の棘が、影に向かって降り注がれた。
 

side/B 02

 
  鉄球から伸びた数本の棘。
  それは影を貫通し、地面に突き刺さった。
  地面に突き刺さっているが故に、刺突された影は動けずにもがく。
  まるで、磔の刑だった。
  彼女はその棘をそのまま固定し、地面に着地。
  その直後、ワンテンポ遅れて上空から落下してきたハードルを身体を踊るように回転させつつ器用に腕で掴んだ。
「eins」
 先程と同じ言葉を歌う。
  回転により、遠心力を再び加えたハードルを、変化させつつ影へ向かって投擲。
  エネルギーを大きく与えられた物質は、回転を加えながら敵陣へと向かう。
  それを叩き落とす知能も与えられていない彼らは、真っ向からそれと接触。
  結果。接触した後に両断、地面へ落ちる。
  彼女は、ハードルの金属部分を薄く変化していた。それはまるで刃物のように。
  しかし、その二つの刃物は、影の中央付近で止まる。
  運動エネルギーが底をついたのだろう。物質という制約を受ける以上、それは仕方がない。
「数多すぎだっつの。ま、今楽にしてやるよ」
 彼女は悪態を吐きつつ、足元の砂を高く蹴り上げる。
  同時に発光。
  宙に浮いた砂は、結合しつつ形を変え、先頭集団へ降り注いだ。
  その隙にオフィリアは背後へ疾走。
  すぐ背後の場所に準備しておいた、野球の硬球が入った籠に手を伸ばす。
「……さて。健康的にスポーツしようぜ、ゾンビ共」
 その中に数十個と転がるボールを両手に掴み、バランスよく交互に影に恐ろしい速度で投げる。
  投擲した直後、そちら側の手は籠の中へ。同時に、反対側の手を投擲に。
  隙の無い連続した攻撃。
  投擲されたボールは、発光しながら飛翔する。そして、目標に到達した時点で破裂。
  直撃による一撃と、破裂による二撃。
  命中したゾンビは痛覚を感じないとしても、その場に崩れ落ちざるを得ない。
  競技用の球といっても、それは度を過ぎたエネルギーを加えられれば、立派な凶器だった。
「どうした!? たかがデッドボールだろうが? 案外脆いんだな? あぁ!?」
 狂気的な笑みを口元に浮かべながら、雨のような投擲を繰り返すオフィリア。
  その言葉と共に、鈍い打音と破裂音が静かな夜に木霊する。
  だが。
「………………く」
 彼女の額には、汗が滲み出していた。
  無論、疲労によるものではない。
  彼女は、ちらりと自身の腹部に目を移す。
 包帯を何重にも巻いたはずのそこからは。
  衣服を鮮やかに染め上げている、赤。
「……ちっ」
 傷口が、広がっている。
  血が溢れ始めていた。
  そもそも、あの程度の治療で完治する傷ではなかった。
「うぜぇったらありゃしねぇ……」
  ――霞の前から姿を消した夜。
  襲撃のあった夜。
  原因は、あの日だった。
  部屋に襲撃してきたゾンビ。
  どんな状況であっても、アレを即座に処理することなどは彼女にとっては簡単だった。
  だが。
  その一瞬、上の階で何も知らず眠っているはずの霞が、脳裏に過ぎってしまった。
  理由は良く判らない。
  何の問題もないとしても、彼の近くで戦うということに身体が拒否したのかもしれない。
  とにかく、身体が一瞬硬直した。
  目の前にいる敵の一撃。それを、避け損なった。
  本来なら、かすっただけ。それで済んだ。
  しかし。人間とは思えないほどの腕力。そして打撃の際自らに返ってくる反動を恐れずに放たれたそれは、いとも簡単にオフィリアの腹部横を、あっけなく攫った。
  その傷は深く。
  そして、今も彼女を痛めつけている。
「あー……。くそが……」
 投擲を続けながら彼女は時折歯を強く食いしばる。
  痛みが、増している。
  動かなければ、応急処置でなんとか耐えられたものの。
  原因はどう考えてもこれだろう。
  力の連続使用及び、激しい運動。
「脆いのはお互い様、か」
 原因は判りきっている。
  多分、今止めればこれ以上傷は広がらないだろう。
  致命傷には、ならないだろう。
  それでも。
「ふん。……バカか。んなわけにいくかっつーの」
 彼女は、攻撃の手を止めなかった。
「壁っつーのはな、どれだけ朽ちそうでも、悠然とそこに聳え立ってるもんなんだよ」
 聞こえていないとは判りつつも、彼女は独り言のように目の前の標的郡に言葉を飛ばす。
  意識を繋ぐために。
「壊れるまでな」


37.「鬼さんこちら」


 薄暗い校舎の廊下を、思いっきり疾走する。
 リノリウムの床は、月明かりと時たま現れる非常灯の心細い明かりでしか照らされておらず、数メートルも先にはほとんど何も見えない。
 夜が更けてきた、というのもあるだろうが。
 時々月が雲で隠されているのか、極端に暗くなる時がある。
 丁度今も、そうだった。
 しかし、僕にとっては、そんなことは特に関係は無い。
 どこに何があるか。そのくらいは一年もほとんど毎日通っているのだから感覚で覚えている。
 そして、後数歩も大股で走れば各階へ昇降する階段に辿り着くだろう。
 間違いは無い。
 非常灯も親切に点いていた。
 廊下から階段の踊り場へ移動。そのまま上方向へ。
 階段は二段飛ばしで上る。
「――はぁっ、は」
 こんなに息を切らして思いっきり廊下を走ったことなどなかった。不謹慎ながらも、少し新鮮な感じではある。
 もう、きな臭い臭いはとっくにしない。
 先程の裏門の扉からは大分離れた場所まで走ってきている。
 丁度、校舎内で正反対の場所辺り、だろうか。
 裏門の扉が北東の辺りだったから、この辺は南西の辺り。
 階段もある。間違いないだろう。
 それにしても。
 ……奴らは今どの辺にいるのだろう。
 僕は、その思考に足を止める。
 闇雲に走っていても、その内またご対面する羽目になるだけだ。
 奴らの移動速度。
 まずそれを把握すべきではなかっただろうか。
 ふいに、光が過ぎる。
 一階から二階に移動する階段の踊り場。
 そこで両階の様子を伺う僕の目の前が、すっと明るくなる。
 明かりは背後からだった。
 そちらに視線を移すと、明るい月が顔を出し、こちらに光を注いでいるのが見えた。
 影が伸びる。
 少し、心配になった。
「大丈夫、か?」
 影なんて見つけられたら即座に居場所が割れる。そんな心配だった。
「いや……。だけど」
 僕にしか聞こえない程度に、確認するような独り言を呟く。
「そんなこと……、奴らに判断できるのか?」
 単一の命令しかこなせない動く死者達。
 だがそれは、命令だけがそういったレベルなのであって、自意識で判断する場合はそうではないのかもしれない。
「……いや、違うな」
 確かオフィリアさんは、奴らは通常の自意識で動くゾンビとは違う。そう言っていた。
 ということは、自意識で判断することは、無い。そう結論付けて良い。そういうことだろうか?
「多分、それであってる。……はずだ」
 自分の推論に自信はあった。が、確証はない。
 自らの命に関わることだ。そう簡単に判断して良いものではない。
「さてと……。とりあえずどうするべきか……」
 もう一度前後左右を確認。
 影は無く、足音も無い。
「どうやら、まだ大丈夫みたいだな」
 目線を動かしながらも、僕は自分の思考に意識を半分程集中させる。
 とりあえずは、あちらの行動パターンを推考してみようか。
 

38.「手の鳴る方へ」


 考える。
 まずは、オフィリアさんの話。加えて僕が実際に見た事柄から得た情報を元に、相手側の動きを推考する。
 そういった事は、得意だった。
 観察力。あるいは、他人の心情を想像する能力。その辺りに僕は長けている、と自負している。
 ファミレスで大地達とふざけていた時にも、披露した僕の唯一と言っていい特技。
 カルマという奴らに対抗できる特殊な技能を持っていない僕にとっての唯一の武器は、それだった。
 だから、それに頼る。
 脳を回転させる。
 相手に自らを投影させる。
 もし、僕が相手……。そう、ネクロマンサならば。
 どうするか。
 オフィリアさんから得た情報を頼りに相手の像を作成。
 自らの欲望の為には、能動的に活動。だが、その標的の前には殆ど自分の姿を現さない。
 更に、あれだけのゾンビ。
 自分を守る兵を量産する心境。単にコレクション、という訳ではなさそうだ。
 …………。
 自信過剰気味だが、慎重。プライドもまた、高そうだ。
 そう評価できる。
 オフィリアさん風に言えば、臆病者。か。
 そう言った人物が取る行動。
 今までそんなことは無かったが、逃がしてしまった唯一の相手。それを追う、自分。
 間違いなく、今回はここに来ていることだろう。
 というか……。毎回現場には行っているように思える。自分の欲望が達成される瞬間を見逃すような人物では無い。
 それでも姿を見せないのは、やはり慎重。用心深いからだろう。
 欲望は強いが、理性はある。
 校庭で攻防が行われていることを知った奴は、それを安全な場所で見学したがることだろう。
 そうなれば。
 オフィリアさんは言った。恐らく屋上にいるだろう。と。
「……だけど、多分」
 それは違う。
 こんなにも月が明るい夜に、屋上なんて逆に見つけて下さいと言っている様なものだ。
 だとすると。
「校庭が見える、南側の教室。か」
 特に、三階。
 高い方が良く見通せるのは間違いない。奴はそれを望むだろう。
 この学校は学年ごとに六つクラスがあるから、可能性は六つ。
 一番目のクラスの隣には理科室なるものがあるが、そこは恐らく施錠されているだろう。
 つまり、そこの扉が壊れていれば、そこにいることは確定。
 居場所に関しては、こんな感じ、だろうか。
 恐らく奴は、侵入してくる際に大体自分が行く場所を選定していることだろう。
 侵入から真っ直ぐにそこへ向かうはず。
 各階へ死体達を散りばめて。
 僕を探すために。
「……大体、こんなところかな」
 間違っていないとは言い切れない。なにしろ僕は実際に相対した訳ではないのだから。
 だが、今はこの推考しか頼るものが無い。
「あんまり乗り気はしないけど……」
 僕は階段を上る。
 もし、三階へ行くという考えが当たっているなら、階段は危険だろう。
 ここよりも裏門の扉側に近い階段ももう一箇所あるが、こちらを使わないとも限らない。
 リスクはなるべく無い方がいい。
「よし……」
 僕の目的は、奴のカルマ能力を封じること。
 つまり、意識を遮断させることと同義。
 それには、相手と相対することが絶対条件だ。
 しかし、奴には自らを守る兵隊がいる。
 とすると。
 周りの兵隊を探索に回し、奴自身の周りの兵隊の数が少なくなるのを待たなければならない。
 まずは、それまで身を隠そう。
 僕はそう選択した。
 さて。
 命を懸けた鬼ごっこを、始めようか。
 

side/A 07

 
「が……」
 涼子は、砂の地面に膝をつく。
 自らの意思ではない。
 足が、立っていることを拒否したためだった。
「ごふっ……」
 胃液が逆流する。
 地面についた両膝の前に、血が混じった吐瀉物が吐き出される。
 その部分だけが、紅く染まる。
「げほっ、げほ……」
 吐き出しても吐き出しても、胃はまだその行為を止めない。
「……っ! はっ、はぁ」
 呼吸を無理矢理落ち着かせ、喉まで競りあがったものを飲み込む。
 そして、揺れる視界のまま、目の前に悠然と立つ人物を見上げる。
「あれぇ? 何? もしかして終わり? 終了? ジエンド?」
 その人物、河合莉音が涼子に言う。
「あっけない」
 言い捨てるように言いながら、しゃがみ込んで涼子の目線に合わせる。
「なんだか妙に威勢が良かったから、少しはどうにかしてくれるのかと思ったんだけど。……まぁ、所詮そんなものよね」
 わざとらしい笑みを浮かべる莉音。
 直後に、辛辣に言い放つ。
「そんなに都合の良い話なんてないのよ」
 その言葉に、涼子は顔を悔しさに歪める。
 歯をかみ締め、今すぐにでも同じように跪かせてやりたい。
 だが、足が言う事を全く利かない。
 震えている。
 これは、痛みからか。それとも蘇った恐怖からか。
 涼子は思う。
 そんなことはどうでも良い。
 どちらにせよ最悪なのは、足が動かないという事実。
 僅かに力を込めて見るものの、引きずる程度が精一杯で、立ち上がる程の力が入らない。
「ま、アンタはここで死になさい」
 しゃがみ込んだ体勢で、涼子の目を覗き込みながら莉音は右手を引いて力を込めた。
 まるで、弓を引き絞るように。
 ウィリアム・テルの話に出てくる林檎を頭に置いた少年のような気分だった。
 あの話と違うのは、標的が林檎か涼子の顔面かという違いだけ。
 鋭い爪。
 間違いなく顔に刺さったら死ぬ。
 あぁ、終わりか。
 涼子は、そんなことを思い浮かべていた。
 そんな様子が相手にも伝わったのか。
「あの男の子と帰れなくて、残念ね」
 莉音は、そんなことを言った。
 男の子。
 誰の事?
「……あ」
 蘇る。
 涼子の脳裏に移る顔。
 月乃霞。
 クラスメイトで、涼子が憧れを抱く彼。
 蘇る。
 胸の内に灯る、何かが。
「じゃ、おやすみなさい」
 莉音が言ったと同時に引き金を引いた。
 一直線に顔面に向かう鋭い手槍。
 終わるんだろうか。
 これを見事に喰らって。
 これを。
 これ。
 これって、何だろう。
 何って、この顔面に向かってくる手に決まってる。
 認識ができている。
 認識ができている、ということは、視えている。
 じゃあ。
「……避けられるじゃない」
 言った途端、涼子は首を思いっきり横に伸ばす。
 そのまま、使い物にならない足ではなく、手を思いっきり地面に叩きつけ、その反動で身体ごと同じ方向へ捻り、回す。
 放たれた鋭い爪が、頬を掠る。
 掠った部分が熱い。
 血が噴出したのを感じる。
 でも、死んでない。
「だったらまだ」
 空中で一回転し、着地。
 受け身なんて取り方を知らない。
 故に、勢いを肩で殺す。
 痛かった。
 だけど、腹部の痛みに比べたら大したことは無い。
 そのまま、もう一度地面に手を叩きつけ、身体を飛ばす。
 今度は、手を伸ばしきったまま硬直している河合莉音の方向へ。
「やれるわよ!」
 避けるとは思っていなかったのだろう。
 目の前の状況を受け入れきっていない。と言いたげな顔でこちらを見る河合莉音。
 その彼女の横半身へ、涼子は文字通り身体ごと突撃した。
 
 

side/A 08

 
 横方向への、強い衝撃。
 鋭い痛みこそなかったものの、圧力と勢いによって河合莉音はその場に留まることはできなかった。
 まして、前方方向へ向かわせていた身体のバランス。それを、真横から押されては立ち止まれる道理がない。
「――くっ」
 身体が無様に地面に擦られる前に、空中で回転し足の裏で辛うじて着地。
「きゃっ」
 対する涼子は、体当たりした後のことなど考えていなかったのだろう。
 地面に鼻頭から突っ込んでいた。
 その様子を見て、莉音が苦笑する。
「……無様としかいいようがないわ」
 地面から顔を起こす。涼子は、顔についた砂を払いながら言葉を返した。
「そうね。っていうか、私もそう思うけど」
 そして、涼子は二、三何かを確認したかと思うと。
「でも、開き直ったせいか、時間が稼げたせいか」
 おもむろに、立ち上がった。
「ちょっとは、回復したわ」
 言いながら、涼子は口の中に入っていたのだろう砂を吐き出す。
 その様子を呆然と見ていた莉音だったが、瞬時に顔をほころばせ、悠然と立ち上がる。
「面白い。やっぱり面白いかも、貴女」
「それは、どういたしまして」
「貴女の頑張りに免じて、校舎に向かうのはもう少し待ってあげる」
「……というか、そんなことさせないわよ」
 何を勘違いしているのだろう。この河合莉音という女は。
 彼女の中ではいつの間にかルールが変わっていたらしい。
「まぁ、とにかく。多少は付き合ってあげる。今度は何分持つかしらね」
 河合莉音が、再び構える。
 一瞬の静寂。
 それで気づく。こことは反対の方の校庭から伝わってくる、怒号や戟音、衝撃。
 恐らく、オフィリア達がたてている音だろう。
 涼子の心の中に、少しの迷いが生まれる。
 大丈夫だろうか。
「あー、ダメダメ」
 涼子は軽く首を振って、その迷いを断ち切る。
「多分、お姉様だったら大丈夫よ。うん」
 私は私の役割を。
 目の前に佇む自分の敵だけを見つめ、反対側から聞こえる音をシャットダウンする。
 その敵が、口を三日月のように歪ませて笑う。
「準備、できた?」
 涼子は思う。
 どうやら待っていてくれたらしい。
 自分が認めた相手には、何も言ってないのにフェアプレイを提供するようなタイプだろう。 
 やっぱり、根から悪い人ではないのかもしれないと。
「一つ、お願いしたいことがあるんだけど」
 涼子は、莉音に向かって言う。
「……え?」
 莉音はそんな言葉が聞こえてくるとは思っていなかったのだろう。顔を判りやすくきょとんとさせる。
「私に負けたことを認めたら、自害とかしないでよね」
 呆けた顔から一転、莉音はこらえきれないと言わんばかりに壊顔になる。
「え? はははっ! 何それ」
「こっちは真面目なんですけど」
 笑う莉音に対して、あくまで冷静に涼子は言う。
 その様子を莉音も感じ取ったのか、笑うのを止める。
「……いいわ。わかったわよ。そんな約束は意味がないと思うけど」
「そう、良かった」
 そして、莉音は改めて構えを取り、呟いた。
「じゃあ、始めましょうか」
 それに、涼子も返す。
「第二ラウンドを」
 言った瞬間、両の砂が舞う。
 まるで、先程のリプレイ。
 違う点があるとすれば。それは涼子の冷静さと、互いの位置。それだけだった。
 

side/A 09

 
 蹴撃が舞う。
 それは上下左右、縦横無尽に夜の闇を切り裂くように。
「……ち」
 莉音は舌を軽く打ちながら、身体を捻る。
 彼女の右頬に涼子の放つ旋風が僅かに触れた。
 その部分だけが、微かに紅く染まる。
 それを気にかけている暇も無く、次弾が襲う。
 弧を描くような、凪ぎの戦法。
 しかし、次の瞬間それは、一点を穿つ突撃の蹴りへ移行した。
「――え?」
 それを認識した次の瞬間、莉音は腹部に前方からの強い圧迫感を覚えていた。
 訳が判らないまま、後方へ押し飛ばされる。
「く……」
 その勢いを、両足を使ってなんとか殺した。
 そして遅れて襲う激痛。
 莉音はその激痛を押さえ込むように、その部分を掌で覆う。
「やるわね」
 痛みを堪えるように、口の端に笑みを浮かべながら彼女は言う。
「あれ、そう? それじゃあ、頑張ってるかいも少しはあるかしら?」
 涼子は同じように笑みを浮かべ、それに答える。
「…………ふん」
 確かに、先刻までの彼女とは違うようだ。
 莉音はそう認識する。
 戦い方を、凄まじいスピードで覚えている。
 否、身体の使い方を。というべきか。
 自分の長所を最大限に生かす動き方。これも、カルマという力の一部なのかもしれない。
「でも、それもここまで」
 涼子に発した言葉。その言葉が彼女に届くか否か、その境に莉音の姿が涼子の視界から掻き消えた。
 その場に残されたのは、風に流される砂埃のみ。
 涼子は急いで視線を走らせる。
 しかし、莉音の姿はどこにもない。
 だとすれば、残るのはどこか。
「……後ろ!?」
「気づくのが遅い」
 涼子が振り返った瞬間、彼女の頭部に向かって風を切り迫る拳が目の前に映った。
 回避は間に合わない。
 涼子は瞬間的に判断。結果、両腕を目の前で交差。更に、身体を若干後ろに傾斜させるという行動を選択した。
「……っ!!」
 両腕に衝撃。
 骨が軋むような音が聞こえた。
 傾斜させていたため、身体は浮いて後方へ飛ばされる。
 だがその恩恵として、衝撃はある程度殺せた。
 しかし、それでもこの威力。
「……っと」
 空中でバランスを整え、たたらを踏みながらも態勢を戻す。
「危ないな、もう」
 開いた両腕から相手を睨みつつ、軽口を叩く。
 しかし、それとは裏腹に彼女の頬に汗が伝う。
 涼子は、両腕を下げ軽く揺らす。
 その様子を見、莉音は言った。
「折れた?」
「……ううん。全然余裕。なにいっちゃってんの、って感じ」
 言いつつ、涼子は体勢を前傾させる。
 しかし、彼女の心境を表すように、汗は次々と頬を伝い地面へ零れ落ちる。
 涼子は自らの耳にしか届かないようなか細い声で、呟いた。
「……どうしよう」
 

side/A 10

 
 そろそろ本格的に困ってきた。と口に出してしまいたかった。きっと、それを口に出して状況が一変してくれるならとっくに口にしていたに違いない。涼子は心底そう思う。
 どうしても状況が変わらない。拮抗するということは、その場に留まらせるだけの効力は保っている。ということだが。それでもなんとか早いうちに終わって欲しかった。
 涼子は、そんなことを考えながらその場から半歩分後ろへ身を逸らす。
 今もまた、突風を思わせるようなあまりにも鋭い風切音が耳に届く。あと数ミリでその突風をまともに受ける羽目になるところだった。涼子は口笛を吹くように口内に溜まった鬱憤を空気中へ逃がす。
 先程からずっとこれの繰り返しだった。いい加減うんざりする。 身を屈める。頭上でまた轟音。また数ミリだった気がする。頭上なので確認はできない。
掠っただけで恐らく致命傷。それでゲームオーバーだ。そんなことは判っている。しかし、涼子は何故か冷静だった。
 どうしてだろうか。涼子は考える。身体をオートで動かしつつ、意識の比重のほとんどを思考へ移す。比喩ではなく、本当にオート。
 何故か判らないが、身体の使い方が理解できてきたと同時期だっただろうか。そのあたり
 相手の位置が、動きが、なんとなく判る。
 それは、どんな場所にいても関係がない。頭上でも、背後でも。とにかく視界の中にいなくても周り、自分を中心とした数メートルの中の状況を感覚的に把握できる。
 なんだろうか、音。のような気がするが、そのイメージが具体的に脳に写しだされる感覚。
 随分昔に見た動物図鑑が、ふいに脳裏に蘇った。確か、そのコウモリの欄。
 彼らは、目が退化し失われた代償として、聞こえないほどの高周域の音波を出し、それの反射によって周辺の状況を把握する能力を持っている、と。そんなことが書いてあったことが思い出される。おぼろげな記憶から知識を引っ張り出す。確か、エコロケーションだったか。これも、それと同じようなものなのだろうか。
 また、避ける。
そうかもしれない。涼子は思う。この目の前で思う存分豪腕を振るっている彼女だって、彼女自身が言っていたとおりまるで獣のように変貌しているではないか。ならば、そういう能力が備わっても不思議ではない。

 それが的を得ているかどうかは定かではないが、そういった力が自身に備わっていることは確かだった。そして身体もそれを自覚した瞬間、それを信用できる感覚と認識したのか、そこから得た情報から危険を感じると、身体能力をフルに稼動し、勝手に身体を逸らすのだ。オートというのはつまりそういう意味。
 反射、と言ってもいいかもしれない。避ける。
「あぁ、もう!!」莉音は思わず、不満を吐き出すように叫ぶ。ちょこまかとうっとおしい。
 しかし、当らないとは言っても、それはあくまでも涼子がこの調子を崩さない限り、だ。
 僅かな空間。その差が生まれるほどに僅かな乱れ。それが生まれた瞬間、全てが終わる気がする。そして、その予想はそれほど間違いないことも分かる。
 幸いにも莉音にはそのことは伝わっていないようだ。涼子はそのことに感謝する。見えない何かに向かって。
 苛立ち、めちゃくちゃに諸手を振り回す莉音。普通ならばそれは隙となり得そうなものだが、尋常ではない腕の運動のスピードが、それを完全に、そして見事にかき消している。
 反撃する暇など、どこにもない。
 だからこそ涼子は困り果てている。どうすればいいのだろう。
 普通の女子高生であった涼子にとって、隙を見つけてそこを叩くことくらいできはすれ、自ら隙を作り出す術などはまるで知ることのない事だった。
 あえて、言葉は出さない。その言葉の調子で、自らの焦りを露呈してしまいそうだから。あっちの方で勝手に余裕に見えているのだったら、その夢を見せ続けさせるべきだろう。
 段々、疲れを感じる気配が自らの中に漂っていた。少し前からその存在がいそうな感じはしたが、知覚してしまうと一気にぐったりときそうで、あえて無視をしていた。
 だが、もう袋小路まで追い詰められているらしい。疲労という名の終焉が輪郭を現している。消耗戦には、正直もう自身がない。……あれ?
 消耗戦。涼子は自分でその言葉を思いつき、不思議に思う。疲れているのは私だけ?
 以前、格闘技好きの父親がテレビで格闘技を観戦していたことがあった。居間に一つだけあるテレビ、涼子自信は音楽番組が見たかったのに、父親が勝手にチャンネルを変えてしまい、仕方なく見たその番組。その番組の中で、コメンテーターはなんと言っていただろうか。思い出せ。理由は分からないが、本能がそれを求めている。
 避ける。
 思い出せ。脳内に命令を出す。
そして不意に、脳の中で何かが接続される感覚に襲われ、蘇る言葉。

 『どんなにスタミナがあっても、あんなにスイスイ避けられるんじゃあすぐに底をついてしまいますよね。皆さんが思っているよりも、渾身の一撃を避けられるというのは精神的にも疲れるんです。二、三倍は消耗しているでしょう』

 頭の中でノイズ混じりに再生される、コメンテーターの無闇に陽気な声。二、三倍の消耗。
 涼子は意識を内側から外側へスイッチする。確認すべきは、莉音の状態、そして表情。
 迫る圧力を横へ逃がしながら、すれ違いざまに横顔を見た。
 いつの間にそんなことになっていたのか。彼女は、荒く息を吐き、汗を激しくしたたらせている。そして、いままで数ミリ間隔で避けていた彼女の攻撃を、横へ受け流した。その事実。
 暗さで気がつかなかったが、意識して見ると、莉音の胸元は多量の汗ですっかり色を変えていた。
 涼子の瞳に光が灯る。
 どうやらようやく、勝機が見えたらしい。


side/A 11


 もう、ここで終わらせるべきだ。涼子は自身の内で決断をする。
 涼子自身にも更に一策も二策も講じ、それを実行するほどの体力は残っていない。これで、最後になる。
 一度だけ。莉音を上回る瞬発力を生み出すことができればいい。
 涼子は考える。戦闘方などこれまでの生活で考えたことすらない。だから、彼女の中の知識を媒体として。
 まず考えるべきこと。莉音は今、何を考えているだろうか。
 横から顔を凪ぐ腕、それを身体を後ろに逸らしてかわす。風切音は健在だった。どうやら落ちたのは速度だけらしい。威力はそんなに変わっていないらしく、致命傷の危険はまだそこにあることを認識する。
 莉音が考えること。例えば、スポーツの試合の選手。終盤で体力も底を尽きた選手をイメージ。彼らは何を思っているだろうか。
 早く終わって欲しい。ゴールしたい。
 そんな彼らの前に、ゴールを差し出したとしたらどうだろう。きっと彼らは諸手を振って終点に向かって飛び込むだろう。
 それが、嘘であっても。
 そのイメージを展開した瞬間、涼子の中で最後のプランが決まった。

 莉音が後ろから迫る。今さっき、目の前にいたと思ったのにこの速度。体力のストックがまだあるわけではないだろう。ここは自分の感性に頼るしかないが、先程の疲労度は本物だったと判断した自分を信じる。だとすると、涼子の目の色が変わったのを彼女なりに知覚したのか、どうやら莉音も最後に残った燃料を一気に使い切って仕留めることにしたらしい。
 それは涼子にとっては好都合だった。
 必死になればなるほど、餌には食いつきたがるもの。
 ましてや、それが本物に見えれば見えるほど尚更だ。
 涼子は、まるで後ろに気がついていないように装う。その様子は、莉音の目には戦う方法が見つかったが、憔悴しきって自滅し、もう動けない状態。そんな風に映っていた。
 しかしそれは全てまやかし。
 知識のない涼子が必死に考えた、唯一の反撃だった。
 自分の身を削っての反撃。
 危険なことは重々理解している。だが、互いの差を埋めるにはこの方法しか思いつかなかった。そんなことを心の中で繰り返しながら、涼子は待つ。
 莉音が手を振りかぶる。その表情は、嬉々としながらも、どこか憂いたような。
「――やっと……」莉音がそう呟き、目の前の女の背を両断した。と思った瞬間。気づく。
 振り切った手に、なんの感触も感じない。
 おかしい。いつもならば、粘っこいような、それでいて熱い何かが手の先を伝う感覚があるはずなのに。
 目を剥き、呼吸を更に荒くしながら改めて眼前を見る。
 そこには誰も、いなかった。
 それを認識した瞬間、莉音の頭の中に火花が散った。
 そして、その火花の正体を、意識が途切れる瞬間に認識する。
 鋭く空を切り裂く、涼子の空中からの襲撃。
莉音の意識は沈む。しかし止まった意識とは反し、身体は宙に浮かび、幾度か地面をバウンドし、更に校庭の砂を大量に引き連れて数メートル滑ったところで、ようやくその動きを止めることを許された。
 起き上がる気配はない。
 巻き上がる砂埃。
 それが全て風に流されて消える頃、闇の中肩で息をしながらも立つ少女が、呟く。
「私、役割頑張って果たしたよね。……ねぇ、か」
 少女の言葉は、最後まで続くことなく、倒れ行く少女の身体と共に、闇に消えた。


39.「そこにいる」


 階段を二段飛ばしで駆け上がる。息なんかはとっくに切れているが、そんなことは構っていられない。
疲れることと、死ぬこと、どちらを選ぶ? しかも、疲れてもちゃんと走れば逃げ切れる希望はありで。疲れても走ることを選ぶ、多分百人中九十九人はそう選択するはずだ。あと一人は分からない。
とにかく、僕もそちらを選んだくちである。よく考えた決断ではない。瞬間的に逃亡することを選んでいた。本能が選んだことなのだから、間違ってはいないだろう。それに、僕にはまだ死ねない、その理由がある。
踊り場を、手すりを軸に半回転して速度を殺さずに移動する。
先程までついてきていた追ってくる数人の足音は、もう遠く下に聞こえていた。
そして、肩で息を吐きながら、まるでそのまま虫の息で呼吸を整えている僕がいる場所。教室がある校舎の三階。右を見渡せば六つ規則正しく並ぶ教室郡。左を見れば、すぐそこには理科室があった。
左の方向を目を細めてみる。暗くてよく分からないが、扉は全くの無事。そして、近づいてドアノブを回してみると、案の定鍵がかかっていて開かなかった。
足首から身体を半回転させ、六つの教室の方へ身体を向ける。
しかし、視線は、理科室の横隣に設置されている、理科準備室のプレートへ向かっていた。
ある種の確信を抱きながら、ドアノブを確認する。
ドアノブが、不自然な方向へ曲がっていた。
よく見ると、無理矢理こじ開けた代償か、理科準備室へと通じる扉が僅かな空間を作り出している。
風がどこから入り込んでいるか分からないが、時折、きぃ、と軋むような泣き声を上げて前後に静かに揺れていた。
理科準備室、理科室へと通じる第二の扉がある部屋。
多分、ここにいる。
僕が思いっきり駆け上がり、この階で止まったということは、音でもうあちら側には伝わっているはずだ。そして、理科室の前で止まった僕の足音。
「気づいてる、よな」声を出すと同時に、冷えた何かが腹から這い上がってくる感覚。その感覚に頬が僅かに歪む。苦笑、というものだろうか。少し意味合いが違う気もするが、本来こういう場合に使う言葉なのではないか。そんな無意味な現実逃避にも似た思考に身を委ねる。
 不意に、下の階から足音が聞こえた。
 確実に近づいている。
 もしかしたら、この中にいるネクロマンサが僕に気づき呼び出し始めたのかもしれない。
 迷っている時間はない。
 僕は、思い切ってそのドアを開ける。そして、静かに沈む闇の中に誰もいないことを月明かりを頼りに確認すると、ドアを思いっきり閉め、その裏側に周辺にあった機材一式を積み上げた。少しくらいは時間かせぎになるだろう。
 そして、理科室へ通じるもう一つの扉に目を移す。
案の定。扉が半分にへし折れながら、こちらに傾き開いていた。
近くにあった掃除用具入れからモップを取り出し、身構えながら扉に近づく。
まるで風のせいだとでもいうように、静かに足先で扉を閉める。そして、それ以上閉まらない位置に行った瞬間、モップで扉を突き飛ばし、僕は理科室の中に侵入する。理科室への扉は、元々半分以上壊れていたためか、案外簡単に理科室の中へと吹き飛んで行った。
静かな暗闇の中に、扉が転がる音がうるさく響く。
一瞬、その音を僕は不快感を覚えたが、今はそんなことよりも理科室内を見渡すことが先決だった。どこに隠れて、急襲してくるか判らない。
しかし、僕のそんな心配を嘲り笑うように、彼はそこにいた。
その男は、汚れのない白衣を身に纏っている。理科室にとっては自然だが、この状況下では極めて不自然だった。
理科室の中央。月の光が差し込まない、ギリギリの位置。生徒用の椅子に腰をかけ、極めて自然にこちらを向いて、そして言った。
「やぁ、いらっしゃい」こちらを向いたその顔には、人間が作り出せるとは思えない冷笑が張り付いていた。それを更に歪ませ、その男は続ける。それと、始めまして。


40.「蟻と蟷螂」


「良くここにいることが判ったね。君は優秀かい?」
 男は椅子から静かに立ち上がると、こちらに身体を向ける
 その様子は至って自然で、その余裕が逆に不自然さを煽り、気味が悪く感じられた。
 僕は答えを返さず、手に持ったモップを構えながら、周辺を伺った。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。ここにいるのは私だけだ」
 僕の心の中を覗き込んだように、男は言った。その顔には変わらず冷たい笑み。
 その言葉をあっさりと信じ込むほど僕は馬鹿ではない。それでも周囲に注意を凝らすが、あの男以外なにも異常は見つけられなかった。
「だから言ったじゃないか。人の言葉は信用するものだと習わなかったのかい、君は」
 諭すような穏やかな口調で男は言う。だが、その口調には安心する要素は何一つ含まれていなかった。
 この教室の端から白衣の男がいる場所まで、距離は数メートル。間には机や椅子もあり、少なくとも普通の人間ならば一瞬では縮められない距離だ。
 普通の人間ならば。
 白衣の男は、僕が質問に答えなかったことを差して気にしてもいないようで、優雅に目の上に覆いかぶさった長い髪を振り払った。
 闇の中でも判る。男の目は、確かに爛々と蒼い光を帯びていた。しかし、そこには何か違和感を感じる。
「お前が、ネクロマンサか」
「……なんだ、それは私のことを呼んだのか? 君の指すネクロマンサが誰のことかは知らないが。……そうだな、少なくともこの現象の原因は、私だが」
 男は悪びれる風もなく、そう言い切った。そしてまた髪を払う。
 なんだ? 片目だけ妙に青みが濃い。
 二度目でようやく僕は気がついた。先程の違和感はこれだったのか。
 河合莉音の時は必死だったし、じっくりと見たのはオフィリアさんの瞳だけだ。彼女は両目が均等な蒼だったが、こいつは、左だけが妙に蒼い。
 能力者によって、差異があるのか?
 そういえば、オフィリアさんが言っていた。能力の比重によって濃度が違う、と。
 左目は爛々としつこいくらいの輝きを放っているが、対して右側はほとんどそれがない。
 なるほど。これで相手の能力値を測るのか。
 確か、聞いた話だと、比重は九対一。身体能力はほとんど普通の人間と同等。
「まぁ、とりあえず君と僕はこうしてお喋りをするような仲にはなれないのだろう?」なら、さっさと始めよう。男は言いながら、白衣を翻して飛ぶ。
 飛んだ。
 椅子や机を完全に無視し、天井すれすれを滑空し、こちらに飛んできた。
「…………あ?」
 予想以上の結果に、呆けた声しかでない。
 しかし、呆けていてはいけない。身体のどこかでそう反応したのだろう。モップを盾にしつつ、姿勢を低くしつつ横へ回避する。
 机の影に隠れるように回り込む。ふと、違和感を感じて手の中のモップを見ると、持ち手の間ですっぱりとモップが割れていた。
 壊れかけたとはいえそこの扉を破った強度のモップを、叩き割った。
「おいおい……、冗談は白衣だけにしとけっ……つーの!」言葉が終わらないかどうかの部分で、再び襲い掛かってくる。
 モップの壊れた部分を投げ、その隙に回避。叩き割られたモップの破片に顔をしかめているうちに、教室の隅に向かって駆ける。
 案外せっかちな男だ。自分の評価に若干の修正を加えなければならない。
 しかし、すぐに追ってくると思えば、後ろからの音は全く聞こえなかった。教室の隅に到達した僕は、そちらの方向を向く。
 白衣の男は、先程の着地地点でゆらりと立ち上がり、心底楽しそうな顔でこちらを見ていた。
「そうだよ。そうやって一生懸命逃げてくれ。君と私はアリとカマキリなんだよ。わかるかい? 完全なハンターと恐怖に怯え逃げるだけのアリだ。君はカルマ使いではないのだろう? 動きで判る。
ここしばらく、自分で狩りに出ていなかったからな。よろこびたまえ、君は私の獲物だ」
理科室中に響く声で高らかに宣言し、白衣の男は指揮棒を振るように、片手を水平に上げた。
その瞬間、影を利用していたるところに隠れていたゾンビが姿を現し、理科室の外へ出て行かせる。もちろん、鍵など外す知能はないため、扉は当然のごとく破壊された。
「ここに来るのがカルマ使いであれば、あれを利用するつもりだったが。君は別だ。しばらく私の遊びに付き合ってもらうよ」
 にや、と嫌悪感を感じさせるためにしか存在しないような笑みを浮かべる白衣の男。
 男から一瞬目を外し、なんとなく破壊された扉の外を見た。
 何も、いなかった。
 そういえば、僕を追いかけてきたはずのゾンビ達もいつの間にかいない。
 僕のその視線に気づいたのか、男が言う。
「あぁ、校舎内の死体がどこへ行ったのか気になるのかい? 大丈夫、ただ外へ向かわせただけさ」
「外……って」
「もちろん、校庭へだよ」
 こいつ……!
 頭の中が一瞬沸騰した感覚に襲われる。
 外のオフィリアさんやポッポは正門からの敵しか見ていない。そいつらが自分の役割だと信じて疑っていない。校舎の中の敵は僕の担当だと。それを愚直なまでに信じている。
 だから、校舎側に注意を払っていない。
 彼女達が危険だ。
 その発想が浮かぶや否や、理科室の出口へ向かって足を踏み出す。
 だが、一歩踏み出したところで、その考えはいとも簡単に砕け散る。教室の中央へ即座に現れる白衣の男。
「行かせるわけがないだろう。君は折角優秀なのだから、もう少し考えたまえ」
 くそ……。
 悔しさともどかしさで、歯をかみ締める。しかし、この距離では後退するしか僕は術を知らない。奴は一瞬で間を詰められるが、僕はそんな脚力は持っていないのだ。
 血が出るのではないかというほど、拳を握り締める。
悔しかった。悔しくて、呪う。何もできない自分と、信頼に答えられず裏切ることになってしまうかも知れないという自分の無力さを。


41.「眩暈」


 机の間を縫うようにして走る。転がるといってもいいかもしれない。
 目の前にやっと空間が開けたと思えば、即座にそこは白く染まる。もちろん、今僕が対峙している張本人の衣服の色だ。
「君は逃げるのがうまいな」
 僕の何倍もの距離をこなし、僕の何倍もの速度で移動しているというのにも関わらず、白衣の男は余裕綽々といった様子で僕の前に立ち塞がる。
 実際、余裕なのだろう。
 簡単に撃退できるなどとは思っていなかったものの、少しは同等に戦いらしきものができると思っていた。
 まさか、これほどまでに差があるとは思っていなかった。
 身体能力の比重が一割程度だから、渡り合える? 冗談じゃない。
 これでは、本当にアリとカマキリそのもの。こんなものは戦いじゃない。狩りそのものだ。
「少しは反撃くらいしてみせてくれよ」
 無機質な声で言う白衣の男。言葉の割には、全く反撃させてくれる様子もない。
 拙い反撃を楽しみにしているのか、ただ一方的な狩りがしたいだけなのか。いまいち言動と行動が伴っていない。
 冷静で慎重なわりに、闘争本能が剥き出し。僕の中の評価がまた変わる。
 今日は、どうも観察眼が鈍っているような気がする。
 それとも、カルマ使いという異常を前に、僕の観察眼など武器にすらならないのだろうか。
「……くっ」
 白衣の男が軽く振った腕が、僕の左腕に当たる。一応折りたたんで防御してみせたものの、やはり痛いものは痛い。力が尋常ではない。河合莉音ほどではないものの、充分に殺傷能力を有する筋力だ。
 それに、比較することで痛みを思い出してしまった。河合莉音から受けたダメージが再び蘇る。今までは興奮状態にあったため、痛みは麻痺していたのだろうが、思い出してしまえばそこからはなし崩し的に痛みはぶり返してくる。
 思い切り殴られた肩が痛い。自分で刺した足が痛い。
「なんだ? 急に動きに精彩が欠けてきたじゃないか。傷でも負っていたか? ああ。そうか。確か君はあの時公園にいた少年か。今思い出したよ」
 極めて冷静に、男は語る。その冷静過ぎる表情は、だがあまりにも仮面のようだ。
「どうしてお前がそれを知ってるんだよ……」男に反して、息も絶え絶えに僕は思いついた疑問を加工せずに投げかける。痛みがぶり返してきたことで集中も切れ、意識していなかった疲労感が身体に押し寄せていた。「あれは河合莉音の独断だろう」
「そんな訳がないだろう。彼女は私の忠実なマトンだよ。一見彼女が自身で考え、決定したかの様な行動も、全て私の意志通り。私の能力は木偶達を通して観察も可能なのさ。まぁ、彼女は生かしてはいるから考えもするし、感情もあるが、それは所詮私がそうなるよう導いた結果に過ぎない。なんだ? 彼女が普通の人間のように行動しているとでも思ったのかい? 笑えない冗談はよせ。あれはただの木偶だよ」
「……それじゃあ、彼女が僕達を攻撃してきたのも」
「私の指示通りだ。素晴らしいね。距離はある程度遠くても思念は届くらしい。私もこの力を持ってまだ日が浅いからね。実験しているんだよ。勤勉だろう? 天才は努力を努力と思わない、なんて言葉を聞いたことがあるが、その通りだよ。全く。……私はここ最近が楽しくて、たまらない」
 表情を掌で隠し、くつくつと笑う。だが、歪なまでに広がった口元は隠しきれるものではなかった。
「今もね、実は実験をしているんだ」男はそう言いつつ、窓から外を見る。そちらは校庭の方角だった。
「……おや。もう着いたのか。案外早いな」
「な……」
 何が着いたのか。一瞬で察しがついた。
「前にばかり一生懸命で後ろに意識が回っていないようだな。木偶は……倒れたか。あの娘もカルマ使いだったのだな。多少予定は崩れたが、相打ちができたのなら、予定変更の必要もないだろう。後は手負いと普通の男子高校生が一人ずつ。私と死体どもだけで充分。……と、現在の状況はこんな感じだが、どうする少年? 君も開き直ってこちらに来て観戦でもするか? サッカーの試合などよりは余程エキサイティングだぞ」
 後ろに気が回っていない、だと。完全に僕の責任だ。
 それに、相打ちって……? ポッポは、鳩村はどうなった?
 嫌な汗が背中を伝うのが分かった。妙に、空気が冷たい。
「おやおや、どうしたのかな。顔が青いが。私は医者だ。良かったら診察してあげても良いが」
 教室の丁度半分を隔てて、全く正反対の気温が流れている気がした。
 焦りからだろうか、普段よりも大分回転が遅い頭で選択する。
 彼女達に危険を知らせなければ。ここから出る。どうやって? 相手の目を眩ませて、思い切り走れば。どうやって眩ませる? 無理だ。ここから出ることは出来ない。つまり、彼女達に危険を知らせることはできない。つまり。
「ああ、ただ医者と言っても信用できないか。そうだ、自己紹介がまだだったね。私はこの街で一番大きい病院の外科医師だ。名前は武内という。以後お見知りおきを。と、言っても君はもう我が病院を訪れることは一度しかできないね。その時は特別に豪華な個室を用意してあげるよ。霊安室というんだが、知っているかね。そのあとは団体部屋でホルマリン漬けになってもらうが、そこは我慢してくれ。私の可愛い死体どももそこにいるから寂しくはないだろう?」
 目の前の白衣の男が悠然と語る。頭の中から排除しようと努力したが、どうも集中力が最低まで低下しているらしい。思考は途中で中断され、武内と名乗った白衣の男の独り言が頭の中を支配する。
 苛々する。焦燥が、身体中を蝕んでいる。
 何もできないのか、僕は。
 何もできないなら、せめて。一言暴言をぶちまけてやろう、と。顔を上げた。
「……あ、れ」
 そんな時だ、男の姿が把握できないという全く持って意味の分からない事態が僕を襲ってきたのは。


42.「鼓動」

 
 なんだ。目の前が揺れている。
 こんな時に、眩暈? タイミングが悪すぎるよ。本当に止めて欲しい。どうしてこんなにも僕の身体は僕に対して反骨精神を持っているのか。
 小さい頃……はどうだったか知らないが、高校での体育祭でもそうだった。折角リレーで勝てそうだったというのに、最後の最後で転んで優勝を逃したんだったか。ここから頑張り時だという時に限って、いつもそうだ。
「くそ……っ」
 ここで僕が何もできなければ。結果は見えている。
 オフィリアさんだって、もう限界なはずだ。隠そうとしていたが、彼女の腹部の傷はまだ全く治ってなんかいない。ポッポは分からなかったみたいだったが、僕には一目瞭然だった。
 僕の絶望感を煽るように、月の光が教室から引いていく。
 白衣の男の姿が、更にぶれる。その様子はまるで音叉が振動している様のようだ。
 気分が、悪い。
「本当に気分が悪そうだな。そんな獲物を狩っても何も楽しくない。無理でも元気そうに振舞ってくれ」白衣の男は軽口を叩きながら、つまらなそうに机に腰をかける。
「え……?」
 それで、気づいた。
 ようやく、白衣の男以外の姿が目に入った。
 ぶれているのは、白衣の男だけ。ただ、それだけだった。
 机は、普通。椅子も普通。窓も普通。蛍光灯も、教室中のいずれもが、異常なまでに普通だった。
 どういうことだ、これは。
 それを自覚した途端、男のぶれが増す。それは、最早ぶれている、と言うよりも二つに分かれている。と表現することの方が正しいとさえ言えるまでに。
 やがて、完全にその揺れは二つの形となった。
 揺れている、なんてもうおかしい表現だった。別たれたそれは、完全に男とは形の違うものだった。
 別たれたそれは、人間の形を保っているものの、表面全てが爛れ溶けている異形の何か。冷酷に立ち塞がる白衣の男とは、似ても似つかない造形の何かだった。
「ぐ……あ」
 その姿が脳の中で処理されたと同時に、頭が万力で締め付けられるかのような痛みが襲ってくる。
「あ、がぁああぁぁああああああああ!!」
 痛さで、気が触れるかと思うほどに。痛みは増す。
「なんだ、狂ったか?」白衣の男は、本当につまらなそうにそう呟き、こちらを一瞥したところで、「……貴様……!」警戒したように、窓辺ぎりぎりまで跳躍し、距離をとった。
 その白衣の男を追うように、異形の何かもまた、距離をとった。
 そして、それは白衣の男に吸い込まれるように、再び完全に重なった。
「まさか……」白衣の男は、心底驚愕したような声を出した。
 何にそんなに警戒しているのか、全く分からない。最初は異形の何かに対しての行動かと思ったが、白衣の男は全くそちらを見ていなかった。むしろ、僕の顔を凝視している。
 異形の何かが男に重なり、薄れたと同時に、脳を締める痛みも緩んできた。
 視線が妙に低い、いつの間にか膝を地面についていたようだ。すぐ傍にあった机を使って、なんとか姿勢を立て直す。痛みの余韻か、身体が妙に重かった。
 白衣の男を、再び見る。
 異形の姿ははっきりとは見当たらなかったが、完全には消えてはいなかった。白衣の男に憑依するように重なったそれは、おぼろげながらも見えている。
 より凝視する。そうすると、何故か今度は異形がはっきりと見え、白衣の男が薄くなっている。まるで、テレビのチャンネルが変わるように。
 あれは、一体なんだ? 奴の能力の一部なのか?
 月明かりが再び明るくなり、教室中を照らす。
 それに伴って、白衣の男が確信したように言う。
「ち……。犬の知り合いは所詮犬、ということか」男は、今までが遊びだったといわんばかりに真剣な表情で身構える。「失敗だ、あいつらを校庭に放すべきではなかったな……。仕方がない。貴様の能力がなんであれ、身体能力は私と同等かそれ以下だろう?」
 白衣の男は真面目な様子で問いかけてきたが、何についての問いなのか。
「ネクロマンサ、お前が一体何を……」
 月明かりが一層明るくなる。
 そして、白衣の男の背後。窓に僕の姿が反射して見えた。
「え……?」
 そこに移った姿で妙に目立つ一点。僕の左の瞳は蒼く爛々と輝きを放っていた。


Side/B 03


 明らかに数が増えている。先程までは視界内に収まるほどだったそれらは、今はすでに首をある程度動かさないと全てを見通すことはできないほどに増えている。
「いや、違うか……。変わってきたのはあたしの方か」
 一息、大きく吐いて腹部を押さえている手を離す。
 血液が流れ出る感触が明らかに伝わってきたが、オフィリアはそれを無視することに決めた。
 そんな一連の動作の間も、次々と数は増えている。止めを刺したと思っていた個体も、崩れ落ちた身体をその場に置いたまま、いつの間にか起き上がっている。
 増えたのは数ではない。
 明らかにオフィリアの処理の速度が追いついていないのだ。
 このままではいずれ。結末はなんとなく見えていた。時間制限はない。終わりの見えない過酷なレース。
 オフィリアは手元に残った僅かな武器で応戦をする。
 すでに、用意していた武器はほとんど使い果たしてしまっていた。読み誤ったかな。オフィリアは一人ごちる。
 硬球はもちろん、それが入っていた金属の籠でさえ、すでに手元にはない。
 残った武器は、僅かな体育用具と地面に広がる砂のみ。
 対単体ならば、これだけ不利な要素が揃っていてもそうそう負ける気などしないのだが、今回はどうも相手が悪い。相性の問題だろうか。
 それも違う。オフィリアは理解していた。単純に体力のストックが少なすぎたのだと。
 オフィリアにしては珍しく根性を振り絞れば、なんて考えも過ぎったが、そんなものは既にもう絞りつくしている。いつからかは忘れたが、足元がおぼつか無くなっていた。
 立っているのさえ危うい。
 近づいてきた一体を、蹴り上げた砂で牽制しつつ腹部の中心を目掛けて蹴り飛ばす。
 予想していたより、距離が取れない。
 軸足が、地面についている気がしない。浮いているような感覚。
 踏ん張りが利かず、思わずその場でたたらを踏んでしまう。
 理性などなくとも、それを好機だと本能で感じ取ったのか死体の群れは一斉に群がる。
 移動が遅いため、目で追い脳で簡単に回避し反撃できると判断できても、身体がどうにも動かない。
 自分が今本当に立っているのかさえ分からない。
 血液を流しすぎたからだろう。意識が混濁し始めていた。
 そして、よろめいたところでやっと感づいた。が、それはあまりにも遅かった。
 背後から後頭部に衝撃を食らう。
 後ろにも、死体が群がっていた。
「最悪だ……」
 それを呟くのが精一杯だった。そのままオフィリアは倒れこむ。
 砂地に流れる血液が吸い込まれ、大きく凝固した塊を作った。
 死体の腕がオフィリアの後頭部に迫る。長く美麗な金色の長髪は、今は萎びた花のように砂の上に無造作に広がっていた。
 髪を捕まれ、乱暴に引き上げられる。やはり筋力だけは一人前らしい。オフィリアの軽い身体は軽々と宙に浮かんだ。
 オフィリアは薄く目を開けて、辛うじてそれを見ている。そして、相手の動きにあわせて時折指先がぴくりと動く。
 こんな状況になっても、オフィリアは反撃することだけをただただ考えていた。
 自分が敗北するのは別に構わない。そんなことに興味はない。ただ、彼らを守ると約束したことを破ることになるのが、自分の中で許すことができなかった。
 死体の腕が、引き絞られる。
 そして、風を切ってオフィリアの眼前に迫った。
 オフィリアは目を瞑らなかった。まだ、まだ反撃できるはずだ。
 腕を最後の力で振り上げる。
「ご……ふ」
 だが、それもあまりにも低速過ぎた。オフィリアは腕を途中で振り上げたまま、身体をくの字に折る。
 先程自分が狙った腹部の急所に、死体の豪腕がめり込んでいる。これ以上は凹まない。そのレベルで。
 血液が逆流し、口内から噴出す。口から出血したとは思えないほどに大量に放出したそれは、目の前の死体に脈々と降り注ぐ。内臓がいくらか潰れたかもしれない。眼前の死体の頭部が真っ赤に染まる。その様子を見て、それはまるで笑ったように見えた。
 面白いと思ったのか、死体はそれを繰り返す。他の死体も次々と群がり、同じようにオフィリアの肢体を蹂躙し始めた。
 痛みは、もう感じない。


side/B 04


 もう、どこを何度殴られたか、など覚えていなかった。
 オフィリアはかろうじてまだ生きていた。格好は先程と同じまま。死体に身体を引き釣り起こされ、浮かんでいる状態。
 まるで、サンドバッグそのものだった。
 呼吸はそれこそ、虫の息といっても良いほどか細いものになってはいるが、それでもまだ生きている。吐き出すものは全て吐き出した。それでも、まだ何か入っているのかと死体どもは群がり、殴打し続ける。
 一度は気を失えたものの、今は完全に覚醒してしまっている。それが逆に、今は不幸だとも言える。
 だが、オフィリアはそのことを不幸とは思っていなかった。
 意識さえあれば、まだ反撃の可能性はあるかもしれない。
 その瞬間が訪れるのを、彼女はただ待ち続けていた。
 そんな可能性は、最早無い。そんなことはオフィリア自身が一番良く理解していたが、それでも彼女は諦めるわけには行かなかった。
お前ら、後で……覚えとけよ。
声に出して唾を吐きかけて、言ってやろうかと思ったが、声は出なかった。喉がいつの間にか潰されていたらしい。
再び意識が墜落し始める感覚が襲ってきた。
箇所など既に関係ない。どこかに一撃でも加えられたら、あっさりと彼女は眠りにつくだろう。そんな様子だった。
死体の一人が、もう壊れると思ったのか、意気揚々と拳を振り上げ、そして胸元を目掛けて引き絞った腕を放った。
が、その腕は、オフィリアには届かなかった。
何故。
死体が自らの腕を見る。そこに、腕はなかった。
何が起きた。死体達には感情など備わっていなかったが、本能的に危機感を察したのだろう。困惑したように動きを止める。
 彼らにとってはそれが良くなかった。
 一瞬動きを止めた死体の群れ。それが、次の瞬間には少し大きめの肉塊となって地面に散らばった。
 オフィリアを掴んでいた腕も、地面に落ちる。それに伴ってオフィリアも地面へと急落下した。
 視界に一瞬だけ移る砂の海。顔から落ちたら痛いかな。
 そんなことをのんびりと考えていると、急に落下が止まった。
 誰かの、腕で支えられたような感覚。
 オフィリアは力を振り絞って首を回し、そちらを見る。それは、彼女にとっては良く見知った顔だった。
「……お前」潰された喉を無理矢理動かし、声を発する。だが、その声はいつもの彼女の声とは違って酷く掠れたものだった。
「こんなところで勝手に死のうとしないで下さいよ。手当ては?」
「……平気」
「分かりました。じゃあ、そこで少し休んでいてください」
 そう言いつつ、現れた黒い衣服に身を纏う少年は肩を貸したまま少し校舎側に寄り、オフィリアを自分の背後になるような場所に横に寝かせた。
「少し死体臭いけど我慢して下さい。……話すの辛いでしょうけど、どういう状況なのかだけ教えて下さい」
 少年は、向かってきた死体を有無を言わさず切り捨てる。彼が指揮者のように手を空で凪ぐと、その線の通りに離れた場所の死体が細切れになった。
 オフィリアは、掠れた声で懸命に状況を説明する。
「なるほど、了解しました。あちらで倒れている彼女と校舎の方へこいつらを寄せなければいいんですね? 増援の可能性は?」
「たぶ、ないと……、思う」更に、こっちの方が重要だとばかりに、オフィリアは声を出す。「かす、みを……助けてやって」
「それは嫌です」
 少年は、それをあっさりと切り捨てるように言った。
「彼女と校舎は僕の役割だと思うんで、やりますが。校舎の方は彼の役割なんでしょう? それを真っ当するのが責任だ。違いますか?」
 少年は畳み掛けるように言う。
「それに」
 凪ぐ手を止めずに振り向いて、オフィリアにはにかんだ笑顔を見せながら少年は言った。
「僕、月野先輩嫌いなんですよね」


43.「虚構の盾」


 窓に映りこんだ自分自身をまじまじと見つめる。
 どう見ても瞳の色が普通ではなかった。普通というか、先程までの自分の色ではなくなっている。
 蒼い。
 この蒼は見覚えがあった。公園から保健室、そして今。それらを思い出したとき、いつも最初に思い浮かぶのはこの色。その時その場でまず始めに頭の中で再生されるのがこの蒼だった。
 今窓に映る僕の瞳。それは、それらと全く同等の輝きを放っていた。蒼いプリズム。闇夜においても自らを誇示するかのように爛々と輝きを放つレンズ。カルマ使いのその証である蒼瞳が、僕の目にもまた、宿っていた。
「少年、君もまさか能力者だったとは」男は警戒は解かず、だがある程度冷静さを取り戻した口調で言う。僅かに浮かべた冷笑は、僕に動揺したことを悟らせないためのものか、それとも事態を軽やかに処理し、計算が全て終わり、その上で算出した結果に安堵したことの表れなのか。今のところはどちらとも取れなかった。「正直、驚いたよ。最初から巧妙に隠していたとするならば、どれだけ賞賛の言葉を並べても足らないだろうな」
 そんなわけは無かった。今、窓に映った自分を見てどれだけ驚愕していると思っているのか。しかし、彼の言葉から自分もまた動揺していることは伝わってはいないようだった。あまりの驚きで反応が出なかっただけ、なのだが。しかし、それはそれで好都合かもしれない。
「まあな。悪いけどこの力を出すことになった以上、僕の勝ちだ」僕は目の前で中腰になって構える白衣の男に言う。
 男はその言葉を聞いて僅かに身を硬くする。この距離で判るほどなのだから、相当動揺しているに違いない。どうやら、まだ彼の中では状況の整理は完了していないらしい。
 僕の方はといえば、明らかにハッタリだった。
 オフィリアさんやポッポが言っていたように、『瞬間的に頭の中で全てが理解できる』事態なんてまだ発生していない。
 窓に映った自分自身の蒼い瞳、それにあの男に重なるように見える蜃気楼のような影。その二つが同じタイミングで発生したことから、あの『見える何か』が僕の能力で。そして、どうやら僕は能力者になってしまったことは間違いない。
 妙に頭の中が冷静に思えるが、それは動揺ばかりしていても仕方が無いという考え方のためだ。僕にも能力者としての素養があって、そして何故かこの場で覚醒してしまった。その事実を受け止め、それならばそれを利用しないことには意味が無い。
 驚いたり困惑したりするのは後からでも良い。
 今はできうる限りの最善を尽くさなければ、僕の人生はここで終わるのだから。
 土壇場になると、考えばかりが冷静に働いて、そのくせ身体が全くの使い物にならなくなるという僕という人間。それがようやっとここに来て、身体も機能し始めたということか。幾分遅すぎるが、この機を狙っていたとしたならば、中々に粋な身体だった。
 僕は、相手よりも先にこの状況を整理し、そして今僕にすべきことを設定し終わった。
 この戦いが始まって、初めて僕は主導権を握る。
 両手を広げ、僕は余裕を見せ付けるようにして話す。
「さて、お前の能力は大体見せてもらった。その上で僕は能力を使うわけだが、これが何を意味するか判るか?」僕は思いつきでそんなことを言う。しかし、白衣の男はそんな言葉にも見事に翻弄されているようだ。僕が動くたびに僅かに身体を反応させている。僕の演技力も中々侮れないものなのかもしれない。
「さあ、判らないな」男はにじり下がりながらも、強気な様子で言う。
「お前を完膚なきまでに屈せると判断したからだよ」
 そんなことを話しつつも、ちら、と窓辺を一瞥し、自分の姿を再確認する。確か、左と右の色の濃さで能力の比重が判断できるのだったっけ。
 窓辺に移った僕の両眼。蒼く輝いていたのは左目だけだった。右目は全く蒼くなどなっていない。
 多少戸惑いもしたが、僕が三人しか例を知っていないだけで、こういった例も存在するのかもしれない。十対零の能力の比重。
 確か、左が特異的な力の比重、だったか。だとすれば、僕の特異能力は九対一の割合のネクロマンサよりも秀でた能力、ということになるはずだ。しかし、僕の確認できる能力らしい現象といえば、奴にゆらゆらと重なっている影のようなものだけ。これのどこら辺が凄い力なのか。
 しかし、ここで演技の精彩を欠けさせるわけにはいかない。僕が自身の能力についてなにも判っていないということがあっちに知れ渡ればそれだけでアウトだ。起死回生の手はできたというものの、それはあまりにもギャンブル性の高い細い綱渡りだった。
 僕は肩を大げさに竦ませながら、理科室特有の妙に長い机を素早く回りこむ。
 多少、演技が過剰すぎたかとも思ったが、僕が近づいた分、あちらも移動している様子が目の端に移った。このくらいで丁度いいのかもしれない。
「僕の能力は、この通り」いいつつ、あえて見えやすいように垂らした前髪を上げる。「特異能力にのみ秀でている形だが。……その分この能力は非常に強力でね。アンタのそれよりも、単純な殺傷力に関してならば全く比べ物にならない」
 白衣の男は鼻で笑って見せたが、先程までの余裕綽々な表情から今の表情を比べると、あちらには余裕の色など漂っていないことが容易に見て取れた。
 僕はハッタリを続ける。
「アンタや河合莉音にやられっぱなしだった時間があったのはそのせいだよ。僕の能力は発動条件が厳しくてね。……だけど、一度発動してしまえば、必勝は揺るがない」全く根拠のない言葉で、自分の能力の表面を塗りたくっていく。「随分と苦労したけど、それもこれで終わりだ」
 言いながら僕は、相手の方へ左手を差し出す。まるで、差し出した腕先で、お前をいつでも殺せるぞと言わんばかりに。
 白衣の男は僕の突き出した右腕から何か発射されるとでも思ったのか、最も前に突き出された人差し指の先端、そこを凝視し、身体を沈ませた。
 これで相手が、僕を同等の相手と見たことは間違いない。僕の方はこれで幾分かは生きている時間が長くなっただろう。だが……。校庭の二人の様子が僕は気になって仕方がなかった。先ほどこの男が外の様子を僕に伝えた時から、間違いなく数分は立っている。あの絶望的な校庭の状況から数分。彼女達の安否が気になる。いや、彼女達の安全を確保するには目の前の男の意識を僕が断ち切れば良い。それで全てが終わる。だが、今の僕にはそれはできない。できそうなのに、できないこの状況。全てがもどかしかった。
 窓の外を眺めればそれで確認はできるのだが、瞬間でも相手につきいる隙を見せてしまえば、それを好機とし間違いなく飛び掛ってくるだろう。そうなれば、僕は逆らえる術を持たない。
「まだか……?」僕は自分にしか聞こえないように舌打ちを打つ。能力の理解。それが訪れれば全ての戦況をひっくり返せる。そんな確信にも似た予感があった。
 だが、それを待っていては外の二人が。
 この二つの考えが堂々巡りで終わらない。僕は一体どうすればいい?


44.「劣勢」


 そういえば。
 先ほどから何かが引っかかっていると思っていたことがある。僕は、片手を尚も突き出したままで考える。それはなんだったか。
 相手の今の状況。そこに何か関係している。
「何? ……くそっ」突然、こちらにも聞こえるほどに大きく声を荒げ悪態を吐き、顔を歪ませる白衣の男。
 一体どうしたというのか。
 僕は何も動いていない。先ほどからこの変わらない状況で、いきなり今の台詞を吐くのはあまりにも不自然だった。まるで、どこか別な状況について苛々しているような。
「別な状況……」ぽつりと僕は呟き。そして気づく。「そうか」
 奴は言っていた。傀儡死体を通じて、彼らが見ている景色をこの男も見ることができるのだと。そして、奴の死体たちがいる場所は、校庭。その校庭の状況について苛々している。ならば。「外は……、大丈夫そう。かな」僕は気づかれないよう小さく安堵のため息を吐き出す。
 それが判ったならば、後は僕の問題を片付ければいいだけか。さて、どうしよう。
 僕の頬が安心で僅かに緩むのを相手が感じ取ったのか、それとも今の状況に苛立ちを感じ始めているのか。白衣の男の目は、憎憎しげに歪む。それは憎悪かそれとも焦燥か。
 どちらにしても、今の僕達の均衡がもう数秒で壊れるのは雰囲気で理解できる。
 もしそうなれば、非常にまずい。
 あくまでも、僕はただハッタリで身を隠しているだけであって、少しでも相手が乱暴な手段にでればあまりにも簡単にそれは露呈してしまう。
 それはまずい。だからだろうか、僕はいつの間にか叫んでいた。
「動くな」その一言に、今にも飛び掛ろうとしていたのだろう男の膝に蓄えられた力が、少し抜けたのが判った。危ないところだった。「動けば即座に殺す」
 先ほどから微妙に身体に力を入れてみたり、と身体の調子を伺っているが、なんだか速く動けそう。簡単に机を殴り壊せそう。なんて予感は全くしない。むしろ、覚醒する前と変わらない。そういったものは身体の調子を伺えば容易に判る。つまり、やはり僕には身体能力の向上はない。ということの肯定でもある。
 瞳が蒼くなるという異常現象が発生した限り、この事態が勘違い、なんてことはないと思うが。やはり、僕の能力はあの揺れる影のようなものに集約されるらしい。しかし、正体がさっぱり分からない。あんなものをどう使って戦えというのか。
 そして僕が考えに浸り、腕を僅かに下げた時だったか。
「……っ」意を決したような表情で、男がこちらに向かって飛翔してきていた。
「ちょっ……」待てよ。なんて、僕の制止の言葉も聴かず男は一直線にこちらに向かって飛んでくる。
 今は無理だ。反撃できない、戦えない。
 嘘の壁がたやすく壊される。
「やはり、ハッタリだったか」男もその可能性は考慮していたらしい。いつもは慎重に事を運ぶこの男のことだ、賭けに近いとはいえ勝算がなければこんな暴挙にでたりはしなかっただろう。相手の思考能力と決断能力を少し読み誤っていたか。
 僕は挙げた腕を咄嗟に戻し、目の前にあった机の上に飛び乗り、そして転がって反対側へ移動する。それで丁度、奴との位置関係が正反対になる。
「おかしいとは思っていたんだ。殺せるはずなら躊躇っている理由などないからな。……なんらかの能力があるのは確かだろうが、どうやら暴力的な能力ではなさそうだな」男は涼しく髪を書き上げながら言う。表情が先程のそれに戻ってしまった。もうハッタリは通用しない。
 どうすれば良い? 身構える。位置関係だけではなく、関係そのものも入れ替わってしまったらしい。僕は相手の一挙一動を注意深く観察しては、身体を動かす。
 奴は遠距離から攻撃する術は持っていない。だから回避することはできる。だが、それも体力が空になれば終わる。それまでに、僕は対抗策を講じなければならない。
 能力の理解。この緊張状態からだろうか。なんとなくその予兆は感じ始めていたものの、まだそれには及ばない。思い出せそうで思い出せない。そんな感覚に近い。
もう少しなのに、何かが足りない。
 僕にはもう武器が……。
「武器」自分で言って、思い出す。
 僕は瞳孔が開くような感覚に捕らわれながらも、急いでポケットの中に片手を突っ込む。
 そうだ、まだ武器はあったじゃないか。
 それを掴み取り、取り出して対峙する男に向かって突き出した。瞬間、身体に血が巡り始めたような熱い感覚。
「なんだ、それは」男は怪訝そうに言いながらも、再び警戒する。どう考えても目的もなく持っていて不自然なもの。鋭く尖った鉄塊を突然取り出したのだから、何かあって当然と考えてもおかしくはない。
 幸い、僕が能力について理解していないことについては気づいてはいないらしいため、それと関連づけた想像をしているのだろう。
 しかし、それもあながち間違いではないと言える。
「お待たせしたな」僕はそう言って、口元を歪ませる。白衣の男はもちろんその意味が判らず、眉の間を寄せた。
 頭の中にあった霧のようなものが晴れた、そんな感覚がした。無論、この尖鉄を握った瞬間に。
 僕の能力の理解。その最後の鍵は、それは間違いなくオフィリアさんから渡された、この鉄だった。


45.「決着」


 全体図を把握した。とまではまだ行かないが、大体の自分の能力については判ってきた。
「なるほどね……、そういうことだった、か」自分で言って微かに笑えてくる。問題なんてものはそのほとんどが答えを知れば、呆れと共に納得できる。これもまた、その類だった。判ってしまえば、今の状況の全てが理解できてしまう。それが突然なんの前触れもなく訪れるものだったから、なんとなく可笑しくなってしまった。
「何がおかしい」男は、機嫌を損ねたような、今までにないくらい低い声で僕を非難する。
「いや、別に……」そこまで、言って僕はもういいか、と思う。「……ケリ、つけようか」
 突き出した左手を、更に真っ直ぐに相手に突き出す。まるで、フェンシングのような構えだと自分で思った。フェンシングの剣程に鉄は長くはない。が、合口の一回り小さくなったような程度の大きさであれば、十分そうも見えるだろう。
 白衣の男も、僕のそんな様子を見て実際に何か感じるものがあったらしく、余裕がただよっていた表情が再び沈黙とともに硬くなる。今度はハッタリではない、と判断したのだろう。
 白衣の男は、身体を左右に揺さぶる。今までにない動きだった。
 僕の方には運動能力に補正はない。それを考慮し動きの速さで翻弄して、そして刈り取るという作戦を取るつもりだろう。それは簡単に読み取れた。そして、相手はそれを隠す気もなさそうだった。それはそうだろう。隠そうが隠すまいが、あまり関係がない。
 この局面になってしまえば、もう小細工はほとんど意味を成さない。ただ、相手を制するために全力を尽くすのみ、だ。
 僕もまた、真っ向から対抗すべく、構えながら姿勢を低くする。
 目を、一瞬だけ瞑る。それで、準備は整った。
 視界のチャンネルが変わる。対峙する相手の姿が禍々しいそれに変貌し、自分の突き出した腕もまた、変貌した。
 突き出した手と、尖鉄が繋がる。それは感覚的なものではなく、視覚的なそれに変わっている。まるで、腕そのものが槍のようだ。
 もちろん、それは僕の視界の中だけの話だろう。現実には僕の手と鉄は繋がっていたりはしない。だが、僕の世界においてそれが成立しているならばそれで充分。
そして、それが僕の能力だった。
 変貌した白衣の男の姿と、自らの腕。それら二つをどうすればいいか僕は理解できた。そして後は、それを実行すればいいだけだ。
 身体能力が互いにそこまで高くないもの同士が、肉体的に相対する時。その場合、入れ替わり立ち代わりの激しい攻防戦などは存在しない。回避するだけならばまだしも、その後即座に攻撃に転じるなんて動きは到底不可能だからである。だから、結末は早い。
 二人が交差した瞬間、その瞬間に決着はつく。様子見の防御はあっても様子見の攻防なんてものはない。
 一瞬のギャンブル。死ぬか生きるか。
「行くぞ」正に真っ向勝負。言うと同時に、禍々しく変化した男が駆ける。しかし、それはこちらに向かってではなく、横に向かってだった。
 二人の間には、長い机があった。それを飛び越えて空中から突進するのは、リーチにこちらに分があるぶん不利と悟ったのか、障害物がない場所まで移動し、低い姿勢のまま直線的にこちらに突進したほうが有利と考えたのだろう。
 男は、僕が立つ細い通路の直線状に到達すると、横の動きから縦の動きに変え、こちらに向かってくる。
 横と縦の動きには、思ったより速度に差があった。
 思っていたよりも随分と速い。その差分はある程度覚悟していたものだったため、僕はさして動揺もせず、落ち着いて相手の動きを見る。
 一瞬にして、互いの間合いに入った。
 そこから更に、男は一歩を強く踏み出して加速度を増した。弾丸のような速さでこちらに飛び込んでくる。
 かわす術など存在しない。
 男はどろどろに溶けた腕を、こちらに向かって突き出す。向かう場所は、心の臓。
 そして僕も、突き出した尖った槍をそのままに、身体を僅かに逸らしながら前足を大きく踏み出す。
 互いに完全な回避など不可能。勝つための術は、ただどちらが先に相手に届くか、そんな愚直なものだった。


Side/B 05


「多すぎでしょ」校庭を縦横無尽に駆け回る少年は、ふと、そんなことを呟いた。少年の視線の先は校庭の端から端へ。
「これだけの数をたった一人で抑えてたっていうんだから、頭が上がらないよなぁ。しかも万全じゃない状態で」見渡し終わる。その数およそ百前後。どこからこんなに死体を調達してきたのか。よく大規模な消失事件として扱われなかったものだ。少年はそんなことを考える。
「まぁ、それも……当然か」目の前に迫ってきた十数人の塊を、瞬時に刻む。「そのために僕達がいるんだし」
 前面に押し寄せてきた死体達を、あらかた片付けたところで、思いっきり校庭を横切るように走る。
 オフィリアとの距離は大分開いている。多分間に合うだろう。少年はそう目算した。
 そして、数秒と立たないうちに鳩村涼子のもとへと辿り着く。すぐ近くには恐らく河合莉音だろうと思われる人物が倒れていた。
 そちらを一瞥し、とりあえずは鳩村涼子の身体だけを持ち上げて、再びオフィリアの元まで走る。担いだ背中に温かみが伝わる。どうやら生きてはいるようだ。
 彼も肉体的には大分強化されている部類の能力者とはいえ、人を一人担ぎながら走れば速度もそれ相応に落ちる。
 間もなく、死体の腕が再びオフィリアに伸びる。というすんでのところでなんとかたどり着く。多少雑かとも思われたが、涼子をオフィリアの近くに下ろし、その行為と同時に近寄ってきた死体を蹴り飛ばした。蹴り飛ばされた死体は蹴られた首だけが、脆くも遠くへ飛んでいく。
 しかし、死体はその動きを止めない。活動できる身体がある限り、彼らは命令の通りに活動を続けるのだ。
「ウザイな」少年は諸手を振り、首を失った物体を切り刻んだ。
 砂の地面に水っぽい音を立てながら落ちる、数個の肉の破片。
 ここまで細かくすれば、動きはすれど、目的のための活動は不可能だろう。
 少年の思惑通り、それは時折跳ねるように動きはすれど、こちらに向かって前進はしてくることはできないようだった。
 少年はそうして着実に相手の数を減らしていくものの、オフィリアの時と同じように、あまりの数の多さに気圧されつつあった。
 少年の能力は対個人には無類の強さを誇るものの、対集団に対してはそれほど性能の高い力ではない。
 少年の呼吸は、次第に荒いものに変わってきていた。
「全く、少しは役に立って下さいよ、月乃先輩……。それとももう、死んでるんですか?」
少年は校舎の方を見ながら、そんな悪態を吐く。
 そんな時だったか。
「え……」
 少年の視界を埋め尽くすように立ち並んでいた、不気味な死体の群れに変化が起きる。
 少年は、忙しく動かしていた諸手を静かに下ろした。もう、動かす必要がないと判断をしたからだ。
 校庭を埋め尽くしていた死体たちが砂のように崩れている。
 細かく散った死体の欠片は、風に流されて消える。まるで、全てが夢だったかのように。
 そしてそれは、能力が破綻した証拠でもあった。
 本来そこに在るはずのない彼らは、能力という繋がりが消えれば当然、世界から排除される。そこには何も残らない。
 勝手に殺され、勝手に世界の理に反した存在にさせられ、そして、勝手に世界を怒らせて消される運命を背負わされた彼ら。そこには、哀れみしか残らない。
 少年は、深く息を吐いて、地面に座り込んだ。割り切ったつもりだったが、やはり多少なりともその感情は生まれる。しかし、首を振ってその思いを消した。今更そんなことを考えても遅すぎる。
そして、校舎を見て一言呟いた。
「なんだ、先輩はまだ死んでなかったんですね」


46.「終着」


 リノリウムの床に横たわる男。しかしそれは白衣を着てはいない。
 男の全身は、まだヘドロのように溶け爛れた表面のままだった。そして、自らの腕もまた変容したまま。
 僕は、視界のチャンネルを変える。
 頭の中でそう念じながら目を一度瞑っただけで、視界の様子は容易に変わった。
 横たわっている男をもう一度見る。今度は白衣を着ていた。
「死んだ、のか?」
殺した、のか? 口に出した言葉と頭の中で半鐘する言葉が違う。口では表現を柔らかくしたとしても、頭の中では判っている。死んでいるならそれは、殺したのだ。
様子を確かめながら、ゆっくりと首筋に手を当てる。
「あ……」鼓動を感じた。どうやら、まだ生きているようだ。
 うつ伏せになっていた男の身体を返す。しかし、刺したはずの左胸には、血液の付着はおろか、傷の跡さえ見当たらない。
「なんだ、これ。どういうことだよ」能力を断片的に理解したというものの、全てを網羅した訳ではない。まだ何か理解していないところでの事態が発生しているらしい。
 そういえば。気づけば左手に持っていたはずの鉄がどこにも見当たらない。
 どこかに飛んでしまったのだろうか? そう思い、一度目を瞑ってチャンネルを切り替えて確認する。が、切り替えたその先に見えた手は、尖った形状のまま。そこには確かに尖鉄はある。そして、もう一度普通の視界に切り替える。が、そこにはやはり何もない。
「なんだ……、これ」シフトした僕だけに見える世界の方へ鉄の存在が移動した。ってことだろうか。なんとなく意味が判らないものの、そうとしか説明しようがない。
 それに、男も生きている。鉄で胸を貫いたならば、心臓に達さなかったという結末はありえるものの、傷一つないということは少しどころか絶対にあり得ない。
 しかし、切り替えたチャンネルの中では、交差した瞬間、確かに変貌した男の胸に僕の槍は突き刺さっていた。いや、刺した。
 そして男もまた、刺された感覚を味わったはずだ。ここでこうして横たわっているのが揺るがない証拠だろう。
 そこで、一つの仮定に突き当たる。
 それを確かめるために、男の傍から立ち上がり、窓辺に近寄った。
 多少明るくなってきた外界。校庭は容易に見渡せた。しかし、そこには何もなかった。予想していたはずの、死体の群れはどこにも存在しない。
 男の能力が消えた、のだろうか。
「やっぱり……」仮定は確信にほぼ変わる。
 つまり、僕は男の能力をだけを殺したのではないのだろうか。
 僕が視界を切り替えた際に見えたイメージは、奴のカルマという能力そのものを具現化した形。そして、僕の変貌した左腕は、そのイメージだけを殺した。
 そう考えれば、この状況も納得できる。
 それが、僕の能力。カルマか。
 オフィリアさんの話に寄れば、カルマとはその能力が自身の深層に起因したものらしい。
 逃れることのできない運命。
 それならば、僕のこの力は。
 そんな考えを巡らせているところに、横から別の思考が割り込んでくる。
 彼女達はどうなっただろう。
 先ほど校庭を見渡したときには、誰も見当たらなかったため、大きな仕事が終わった後のぼけというか、多少の放心状態からかすぐにその事について思考が回らなかった。
 思いついた途端、極端に鼓動が早くなる。大丈夫だろうか。
 この部屋から出ようと、扉の方へ視線を投げると、そこには人影があった。
「……黒川?」最初は誰か判らなかった。というよりも、まさかここにその存在があると思っていなかった人物だったため、動揺が思いっきり表面に出る。
「殺したんですか、それ」扉のところに寄りかかった黒川が、理科室の中央で倒れる男を顎で指す。
 僕の動揺の訳を知っている癖に、そこに触れない辺り嫌な奴だった。
「殺してない」
「はぁ? じゃあ、どうやって」
「僕も……」能力者だった、と言おうとして、何か引っかかった。ここにいるということは、黒川も。「……おい」
「そうです、僕も能力者ですよ。彼女らやそこの男と同じく」僕の質問を先回りして答える黒川。本当に嫌な奴だった。「それにしても。先輩、よく勝てましたね。普通の人間のくせに」
「抜かせ。……っていうか、なんつーか」言いつつ、目を瞑り、視界をシフトさせる。ちら、と白衣の男を見る。が、そこにはすでに変貌した化け物のようなものはいなかった。普通に白衣の男が横たわっている。カルマが消滅したから消えたのだろうか。それとも僕の能力が発動していないのか。
 しかし、左手を見るとやはり槍のように変化している。更に黒川の方へ視線を投げると、黒川の傍らにも何か得体の知れないものが寄り添っていた。どうやら能力が消えたわけじゃないようだ。そしてまた、黒川が能力者だというのは間違いないらしい。
 黒川の方へ視線を移したからか、黒川もまた僕の異変に気づいた。
「マジっすか……?」黒川はなんだか心底嫌そうな顔をして僕の瞳を見ている。
「なんだその嫌そうな顔」
「別に……。っていうか、割り合い十対零って……」黒川が眉間にしわを寄せながら言う。
「知らねっての。っていうか、普通じゃないのか?」能力が発現している時点で普通も何もないと思うが。
「僕が知っている限りではいませんね。欠陥ですか?」人に向かって簡単に欠陥という辺り、こいつも人間的に何か欠けている気がする。そんな僕の心情を読み取ったのか。「大丈夫ですよ、先輩以外にこんなこと言いませんから」
 至極失礼なことをあっさりと言ってのける黒川聖。あまりにもあっさりとした口調だったため、言いかえすタイミングが掴めなかった。というより、開いた口が塞がらなかった。
 もういいや、こいつとまともに話そうとすることは無駄だ。と判断したところで、そもそもに思いつくべき疑問がやっと浮上してきた。
「っていうか、なんでお前ここにいるんだよ」
 黒川が答える。
「リー……。オフィリアさんの危機と聞いたので。あと、鳩村先輩も危なかったし。決して先輩のためじゃないんで、あしからず」
疲労で言い返す気力もなかったため、後半は無視した。
「オフィリアさん、と知り合いだったか? お前って」自分で言う分には感じないが、黒川がオフィリアさんと呼ぶと何故か違和感がある。言い馴れていない、というか。
「まぁ……、嫌ですけど、その辺も追々説明しなきゃいけないんで。本当はこんなところで二人きりで話すのなんて嫌で嫌で仕方がないんで、オフィリアさんが目覚めてから鳩村先輩と同時に説明します」
「二人とも無事なのか?」
「僕が駆けつけなければ死んでましたけど。確実に。とりあえず、今は命に別状もなさそうなので、応急処置だけして保健室のベッドに寝かせてあります。ここの処理は僕がするんで、行くならさっさと行ってください」
 とりあえず、二人が無事で良かった。そして、僕は不満を隠さずに鼻を鳴らしてその場を早々に立ち去ろうと扉へ向かう。扉の横に寄りかかっていた黒川の前を通り過ぎるところで、再び声がかけられた。
「とりあえず、下の二人は今日中には目覚めないでしょう。それに、僕にも色々とやらなくてはならないことがあるので、説明は後日ということで。日時場所は明後日あたりお伝えします」
「そうかよ」僕はそれだけ言って、階段へ向かった。が、やはり気になることがあった。立ち止まって、振り返らずにまだ背後にいるはずの黒川に向かって言う。
「黒川」
「なんですか」
「正直、助かった」それだけを言って、僕はさっさと階段を下りた。
 背後からは、ふん、と鼻を鳴らしたような音が聞こえた。


47.「後日談」


「寒いね、霞くん」
 隣に立つ鳩村涼子が言う。
「うん」
 僕は答えながらそちらを見るが、彼女は近くに立っているはずなのに、よく顔が見えなかった。それは、濃い朝霧のためだった。
 時刻は八時。まだ雪の降らない季節とはいえ、この時期の朝の気温は身体に堪える。事実、僕も涼子も手をすり合わせて摩擦を起こしたり、息を吹きかけたりと必死になっている。
「身体、大丈夫か」
「うん、昨日ゆっくり休んだからなんかもうばっちり」
 あの事件から、すでに二日が経過していた。
 オフィリアさんとポッポは、あれから一日ほど起き上がれなかったが、カルマの力もあってか入院もせずにその後すぐに回復した。
 オフィリアさん曰く、身体能力の強化がある程度高ければ、致命傷でない限り安静にしていれば驚異的な早さで回復する。らしい。
 僕も怪我をしていたが、二人程ではなかったし、日常生活に支障が出るような重症ではなかったため、僕は普通に昨日は学校へ行った。休んで、何かと勘繰られるのも嫌だという気持ちもあったからかもしれない。
 そんな訳で、ポッポは無事万全になり、今日は学校へ行くために一緒に登校している。
 今は、大地を待っている最中だった。
「そういや、今日辺り黒川から連絡あるらしいけど」
「あ、私昨日メールきたよ」
「僕にはきてないけど……」
 ほら、とポッポが携帯電話の画面を僕に見せる。
「……えっと、明日色々と話があるので、放課後残っていてください。月乃先輩には言わなくていいです。一回帰ってもらってもう一度学校に来てもらいますから」僕は、メールの本文を音読した。
「霞くん、今日なんか家に用事あるの?」
「いや、ないけど……。地味な嫌がらせだろこれ」
「あ、そうなんだ」くすり、と涼子が笑みを漏らす。
「いや、笑うけどさ。こいつの嫌がらせ陰険過ぎるでしょ……。しかも、何故か僕だけ」僕は心底嫌だと言いたげに顔を歪ませながら言う。
「似たもの同士?」
「どこが」
 そんな話をしていると、遠くから声が聞こえてきた。
「わりぃ、待った?」
「遅いよぉ」ポッポはわざとらしくむくれる。わりぃわりぃ、そう言いながら近づいてくる大地。
「お、ポッポ今日は来たのか。なんだ? 風邪か?」
「ううん……。まぁ、そんな感じ」
「そっか。もう大丈夫なのか?」
「うん」
 大地はもう一度、そっか。と言って満足そうに頷く。
 事情が事情だけに、大地に本当の事を放すわけにはいかなかったから、休んでいた理由を大地は知らないが、そんな風に普通に心配をしてくれることが、自分が心配された訳でもないのに妙に嬉しく感じた。
 それはポッポも同じだったらしく、満面の笑みを浮かべている。
「それじゃ、行こうか」
 誰が言ったか、そう言うと、残りの二人も頷き、三人の足は同じテンポで進み始める。
 談笑は、止まない。

 事件は、こうして収束し終わりを告げた。
 この先僕らがどうなるかはまだ判らない。また、奴のような人間が現れないとも限らない。それでも、僕らは一時的だとしてもこうして普段の生活を取り戻すことができた。
 奇跡的にも、何も失うことなく。
 それは、本当に奇跡と言えるのかもしれない。
 だからこそ、普通に過ごしていたはずの、こんな何気ない時間も大切に今は思える。
 遠くから、予鈴が聞こえた。
「やべ、のんびりしすぎたか」大地が焦ったように言う。
「走る?」僕は言いつつ、足を早ませる。
 そして、ふいに手のひらに温かな感覚と、腕が前方へ引かれる感覚。
 見ると、涼子が僕と大地の手を引きながら走り出していた。
「早く早く!」その言葉は、焦っているようには見えず、むしろこの状況を楽しんでいる風にしか見えない。
 その様子を見て、僕と大地は互いに目を合わせて笑みを作る。
 走り出す。
 関係を、繋いだままで良かったと。今はそう自信を持って断言できる。
 あの時、諦めていれば失ったものは数え切れない。忌々しいとさえ言える事件だったけれど、そのおかげで僕は新たな気持ちでここに立っていられる。
 不謹慎ながらも、そんなことを思う。
 手を引かれ、息を切らして走りながら、空を見上げる。
 いつの間にか霧は晴れていた。
そして澄み切った空は、青く。蒼く、それはあまりにも綺麗だった。